真鍋淑郎、「世界で最もぜいたくにコンピュータを使った男」の知られざる研究半生

真鍋淑郎、「世界で最もぜいたくにコンピュータを使った男」の知られざる研究半生
真鍋淑郎 2021年ノーベル物理学賞受賞者インタビュー【中】
https://diamond.jp/articles/-/284204

 ※ はぁ…。この人、フォン・ノイマンの「孫弟子」だったんだな…。

 ※ フォン・ノイマン―ジョセフ・スマゴリンスキー―真鍋淑郎…、という「系譜」か…。

 ※ 『「コンピュータの父」ともいわれるフォン・ノイマンが、コンピュータを応用する最適な分野として気象予測を選び、プリンストン高等研究所に世界中から優秀な若手研究者を呼び集めていた。』…。

 ※ ある意味、フォン・ノイマンの「慧眼」が取らせた「ノーベル賞」という側面もあるな…。

 ※ 『大ざっぱな計算だが、40年間の滞米生活で気象研究のために使った研究費はざっと150億円。このうち約半分をスーパーコンピュータの使用料が占め、年間当り平均で2億円近くをコンピュータ代に使ってきた勘定になる。これだけ膨大な資金を、日本からやってきた一人の気象学者に注ぎ込むアメリカの研究体制――真鍋はつくづく、この国の持つ多様性というか、懐の深さを痛感せずにはいられない。』…。

 ※ 『給料も天国だった。日本の中央気象台の大卒初任給が8200円だったのに対し、米国気象局の給与は月額600ドル。当時の為替レート(1ドル=360円)で換算すると21万6000円に相当し、日本に比べてなんと26倍の高給を食んでいたことになる。』…。

 ※ 「ノーベル賞(人類の進歩と幸福に貢献したと評価できる研究に与えられる)」なんてものは、そういう中から、生まれるんだな…。

 ※ もちろん、「気候モデル」における「大気の3次元柱モデル」の計算処理と、スパコン(それも、ベクター型)の潤沢な使用が、ピッタリとマッチした(スパコンの潤沢な使用≒ノーベル賞級の研究成果の叩き出し…、というものでは無い)という側面があるのだろうが…。

 ※ 一方、「日本型研究システム」とは、『 97年9月末に赴任して以来、地球フロンティア研究システムでの研究は4年になろうとしているが、自由闊達な雰囲気とはほど遠い何かを感じざるをえない日々を過ごした。それはスマゴリンスキーのような名伯楽がいるいないという単純な理由ではなく、日本の社会システム全体にどっかりと根を下ろす『見えざる壁』ともいえる存在によるものだった。

 真鍋自身の経験に照らして、理由はいくつか挙げられる。まず、国の科学研究費配分の問題がある。日本では官僚が予算を取って、能力や業績に関係なく悪平等で研究費を配分する。大御所といわれる先生のもとには多くのカネがつき、気に入られた子分だけにカネが流れる仕組みだ。

 そこには、米国流のピア・レビューが働かない。日本では相手を批判すると面子をつぶすのではないかと恐れ、研究で最も重要な建設的批判が起こらない。お互いに批判を水際で止めて曖昧にしてしまうため、そこそこの研究成果で満足し、大きなブレークスルーにつながる芽を摘んでしまっている。』…、というようなシロモノらしい…。

 ※ まあ、「ノーベル賞級」の「頭脳」を招聘したとしても、「システム」がこれじゃあ、「ノーベル賞級の研究成果」は、生まれないだろう…。

『戦後の就職難で渡米、最高の上司と研究環境との出会いで
1~2年の滞在予定が40年に延びた

「世界で最もぜいたくにコンピュータを使った男」――地球フロンティア研究システムの真鍋淑郎・地球温暖化予測研究領域長の研究者人生を振り返るとき、これほど的を射た表現はほかに見当たらない。

 大ざっぱな計算だが、40年間の滞米生活で気象研究のために使った研究費はざっと150億円。このうち約半分をスーパーコンピュータの使用料が占め、年間当り平均で2億円近くをコンピュータ代に使ってきた勘定になる。これだけ膨大な資金を、日本からやってきた一人の気象学者に注ぎ込むアメリカの研究体制――真鍋はつくづく、この国の持つ多様性というか、懐の深さを痛感せずにはいられない。

 愛媛県新宮村に生まれた真鍋は代々医者の家系に育った。祖父も父も兄も医者という家庭環境のなかで、当然自分も医者になるものと小さいころから思い込んでいた。旧制三島中学(現県立三島高校)4年修了時に大阪市立医大に合格し、入学手続きをとって医者になるための勉強をスタートした。

 ところが、どうもこの世界が自分の性分に合わないことに気づき始めた。まず日本の医学教育が暗記中心の学問であることに幻滅を感じた。それに医者は緊急事態に対して冷静で的確な判断を求められるが、そういう状況になればなるほど平静でいられなくなる自分を意識した。

 本人の言葉を借りれば、「記憶力は悪いし手先は不器用だし、いざとなると頭にカッと血が上って何をしていいかわからなくなる性分」が、入学早々から心の内で医者への道を断念させていた。ほとんど「腰掛け状態」だった医大生活の1年後、たまたま大学が旧制から新制に切り替わる時期に当たり、この機会をとらえて自分に合った学問の分野に進路変更しようと決心した。

「とにかく自分の性格から考えて、時間を十分にかけ、じっくり問題に取り組める研究者の道が一番合っていると思った。データに基づいて自然現象の謎を解くことには子どものころから興味があり、これらの条件を満たせるのは物理学の世界ではないかと考えた」

 新制に替わった東京大学の試験に受かり、1949年春、第一期生として入学した。その際の喜びとは裏腹に、真鍋が有能な医者になることだけを楽しみにしていた父親のがっかりした顔が、脳裏に残っていまだに忘れることができないという。

 専門課程に進む際、真鍋には理論物理学に進むか、地球物理学に進むか二つの選択肢があった。東大に入学した年、湯川秀樹博士が日本人初のノーベル物理学賞に輝き、理論物理学が脚光を浴びている時期でもあった。しかし、「数学のできる優秀な人でないと理論物理学は無理」とあきらめて、地球物理学を最終的な専攻科目に選んだ。』

『大学院時代に米国気象局からスカウト

日本に職が無く「1~2年の予定」で渡米

 学部から大学院に進み、天気予報の精度を高める研究に没頭しながら博士号取得に向けたいくつかの論文をまとめた。そうした博士課程修了直前の58年初め、米国海洋大気庁(NOAA)の前身である米国気象局のジョセフ・スマゴリンスキー博士から招待状が届いた。真鍋が55年に発表した論文が彼の目にとまり、「アメリカでいっしょに仕事をする気はないか」という渡米を勧める誘いの手紙だった。

 当時の日本は、まだ敗戦の爪痕も生々しい戦後の混乱期で、大学を出てもほとんど職がないのが実情だった。まして専門が気象予測となると就職先も限られ、中央気象台(気象庁の前身)に入るか、大学に残って学者の道を歩むか、選択肢がきわめて限られていた。

 ところが、最も大きな受皿になるはずの中央気象台は、陸軍や海軍の気象部に在籍していた『残党』を抱え込み、ほかに行き場のない職員であふれ返っていた。仮に真鍋がそこに入っても、「10年後、20年後もペーペーのまま」の可能性が高く、とても就職しようという気持ちが起きなかった。

真鍋淑郎、「世界で最もぜいたくにコンピュータを使った男」の知られざる研究半生2001年9月29日号誌面

 一方、この時期のアメリカは「スプートニク・ショック」の真っただなかにあった。旧ソ連に人工衛星の打上げで先を越され、国を挙げて追いつき、追い越せと、科学技術予算が湯水のように付いた時代だった。61年にはケネディ大統領が「アメリカは今後10年以内に人類を月に送る」と宣言し、自然科学の分野は研究予算も研究レベルも黄金時代を迎えようとしていた。

 加えて、コンピュータも日進月歩の発展を遂げるスタートラインにあった。「コンピュータの父」ともいわれるフォン・ノイマンが、コンピュータを応用する最適な分野として気象予測を選び、プリンストン高等研究所に世界中から優秀な若手研究者を呼び集めていた。「今思うと研究者には夢のような時代」に、一大学院生だった真鍋にも正式にお呼びがかかったのである。

 招待状を送ってくれたスマゴリンスキーはノイマンの最も若い弟子に当たり、そのころすでに米国気象局で、数値データに基づいた長期予報の研究に携わっていた。日本で職がないことを考えると、この誘いは真鍋に魅力的なものと映り、とりあえず「1~2年のつもり」で招きに応じる決意をした。』

『背水の陣で渡ったアメリカに

理想の研究環境があった

 いざ現地に赴いてみると、そこは『天国』のようであった。日本だけでなく、ヨーロッパやインドなどからやってきた若い研究者にものびのびと研究させ、競争心を刺激し合う自由闊達な研究風土にあふれていたからだ。

 給料も天国だった。日本の中央気象台の大卒初任給が8200円だったのに対し、米国気象局の給与は月額600ドル。当時の為替レート(1ドル=360円)で換算すると21万6000円に相当し、日本に比べてなんと26倍の高給を食んでいたことになる。

 渡米した当時の心境を、真鍋は今こう振り返る。

「あの招待状は、今からみればたいへんすばらしいチャンスのように思えるが、本人の気持ちはそんな浮ついたものではなかった。むしろ日本に職がなく、背水の陣でアメリカに渡ったというのが正直なところだった。でも実際に行ってみると、外国から来た青二才の若者に好きなように研究させてくれた。多額の研究費も出て、研究一筋の毎日を送ることができた。20代後半にあの環境で研究できたことが今の自分につながっていると思う」

 コンピュータの発達と歩調を合わせるように、真鍋の気象研究は未開拓の分野を切り開いていった。気象局、そして地球流体力学研究所(GFDL)で、常に世界最高速のスーパーコンピュータを使い続け、それまでどちらかというと考古学的な学問だった気候変動の研究を、理論に基づいて数値モデル化する「大気科学」の土俵に乗せていく『先兵』の役割を果たした。

 そうした地道な研究の成果が、やがて67年の温暖化予測の先駆けとなる記念碑的な論文に結びつき、さらに69年の大気・海洋結合モデルへと発展していった。初め1~2年つもりで始めた米国生活は、研究三昧の日々が続くうちに10年、20年……と積み重なり、いつしか40年の長きに及んだわけである。

 もちろん、それは真鍋が「生涯の恩人」と仰ぐスマゴリンスキーの陰の支えがあったからこそ可能だったともいえる。GFDL初代所長で真鍋より7歳年上のこの気象学者は、今もプリンストン近郊で悠々自適の毎日を送っているが、この恩人を語る時の真鍋の表情はいつにも増して輝いて見える。

「こんな上司に仕えたら最高と思わせる典型的な人物だ。いい研究をすると徹底的にほめてくれるし、成果が上がらなくても決して『クビだ』などと批判的なことは言わない。しかも、部下に対して『雑用はしなくていい。それはオレ一人でたくさんだから、ともかく君たちは研究に没頭するように』と口癖のように言っている人だった。」

最高の上司との出会いでスピード出世

36歳で『大統領任命対象公務員』に昇格

 真鍋は渡米してから昼夜兼行で、ひたすら研究三昧の日々を送ったが、最初の8年間ほどはこれといった論文も書けず、精神的に不安定な状態が続いた。米国気象局は1年ごとの契約更新だっただけに、「今年中にほかの仕事を探して出ていくしかないかもしれない」と思い詰めた時期が何回かあったが、スマゴリンスキーは「いい研究をやっている」とほめるばかりで、叱責することは皆無といってよかった。』

『実際の研究でも、雑用のすべてを彼1人でこなしてくれた。特に真鍋らが感謝してやまなかったのは、他の研究所との争奪戦を繰り広げながら、常に最新鋭のコンピュータを導入してくれるその類い稀な力量にあった。

「数値モデルの計算に、その時々の最高速のスーパーコンピュータを使い放題使えたのは、本当に研究者冥利に尽きる喜びがあった。しかも、アメリカは専門家による相互評価(ピア・レビュー)が厳しい国だから、研究の提案書作成はたいへんな仕事だが、それも彼が一手に引き受けてくれた。GFDLで獲得した研究費の3分の1を私のグループに配分してくれて、やりたい研究が好きなだけできて、いい結果が出るとほめてくれる、こんなすばらしい上司がいますか?」

 もちろん真鍋が「成果が上がらないと居づらくなる無言の圧力があった」と述懐するように、真鍋自身の実力や努力が認められたからこそ、クビにならず研究生活を続けられたのだろう。スマゴリンスキーの軍団は、彼がトップを務めていた30年間というもの、80数人の少数精鋭主義を貫いており、そこからはずされなかった真鍋も優秀な研究者だったことは間違いあるまい。

 運も実力のうちというが、優れた上司に巡り合えた真鍋は自らの能力とも相まって、トントン拍子で出世の階段を上った。「日本人だからといって差別待遇を受けることは一度もない」まま昇級に昇級を重ね、36歳までの10年間で公務員としての職階であるガバメント・サービス・グレード(GSG)の11から16までを一気に駆け上がった。

 アメリカの公務員制度では、GSG16以上はポリティカル・アポインティ(大統領任命の対象)になる。真鍋は最速で『スーパーグレード』とも呼ばれる16に到達したわけだ。

 ビザも最初は短期就労(H1)ビザに始まり、次に一時雇用の公務員としてグリーンカード(永住権)を取得した。さらに70年代半ばには、「アメリカの市民権がないとグレードが上がらない」とのアドバイスを受け、実際に市民権を取って国籍を日本からアメリカに移してしまった。

 真鍋はスマゴリンスキーがGFDL所長を辞任したとき、後任に立候補しようとしたことがある。結果的に立候補を断念したが、それは日本人ゆえに差別待遇を受けたためではなく、「(所長の)公募に打って出ると言ったら、家族全員に反対された」からで、日本人に門戸が閉ざされているわけではなかった。』

『日本に帰って感じた

アメリカとの大きな違い

「自由闊達」という言葉がふさわしい40年間の滞米生活を総括して、真鍋はこんな感想を語る。

「スマゴリンスキーの管理能力がすばらしかったから研究所が有名になり、研究費も潤沢について好きな研究を好きなだけやれた。10年先、20年先を見据えた長期的な気候変動を研究テーマに選んだ彼の炯眼(けいがん)にも支えられ、初めのうちは数こそ少なかったが、独創性の高い論文を書くことができた。最初の10年間で数値モデルをつくり、それ以降はモデルを適用してさまざまな切り口を見つけ出していった。やはり駆け出しのころの彼の処遇のおかげで今日があり、その点は感謝しようにもし尽くせないものがある」

 こうした40年間の満ち足りた米国での研究生活と、現在の地球温暖化予測研究領域長の立場を重ね合わせながら、真鍋は「40年前の気象局の雰囲気と、地球フロンティア研究システムの今とが似ている」と、一瞬の夢から覚めたような表情でポツリとつぶやいた。ある種、草創期の張り詰めた緊張のようなものを感じるらしいが、じつはそれが似て非なるものであることを真鍋は知悉(ちしつ)している。

 97年9月末に赴任して以来、地球フロンティア研究システムでの研究は4年になろうとしているが、自由闊達な雰囲気とはほど遠い何かを感じざるをえない日々を過ごした。それはスマゴリンスキーのような名伯楽がいるいないという単純な理由ではなく、日本の社会システム全体にどっかりと根を下ろす『見えざる壁』ともいえる存在によるものだった。

 真鍋自身の経験に照らして、理由はいくつか挙げられる。まず、国の科学研究費配分の問題がある。日本では官僚が予算を取って、能力や業績に関係なく悪平等で研究費を配分する。大御所といわれる先生のもとには多くのカネがつき、気に入られた子分だけにカネが流れる仕組みだ。

 そこには、米国流のピア・レビューが働かない。日本では相手を批判すると面子をつぶすのではないかと恐れ、研究で最も重要な建設的批判が起こらない。お互いに批判を水際で止めて曖昧にしてしまうため、そこそこの研究成果で満足し、大きなブレークスルーにつながる芽を摘んでしまっている。

 真鍋にしてみれば日本の現状がなんとも歯痒くて仕方がないようだ。

「私が若い日にアメリカに渡り、自由にのびのび研究ができたような環境が日本にもできないものか。私が行ったころは、アメリカでクビになったら研究者としてのキャリアは終わり、もう食えないという背水の陣でやっていた。アメリカに渡る今のインド人や中国人の留学生のほうが背水の陣で必死にやっている。今や日本のほうが給料は高いし、無理にアメリカに行くこともないが、アメリカの環境は研究者にとって最も適したものだと思わざるをえない。その原点は、外国から来た人間を差別なく受け入れ、同じ土俵で才能の違った人間を徹底的に競わせる『多様性』の文化にあるのかもしれない」

 若き日への憧憬と現状への不満との狭間で、やはり真鍋の思いは40年の長きを過ごしたアメリカに向かうようである。(文中敬称略)
きし・のぶひと/1973年東京外国語大学卒業、読売新聞社入社。横浜支局を経て経済部に勤務、大蔵省、通商産業省、日本銀行、経団連機械、重工クラブなどを担当。91年読売新聞社を退社、知的財産権などをテーマに執筆。』

連合、政権遠い野党に苦悩 発足後初の女性会長

連合、政権遠い野党に苦悩 発足後初の女性会長
政界Zoom
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA013SM0R01C21A0000000/

『日本最大の労働組合の中央組織、連合は政治への関わりで苦悩する。支持する立憲民主党など野党は政権から遠のいている。前会長の神津里季生(りきお)氏は野党の結集を目指したが足並みがそろわない。6日に就任した新会長の芳野友子氏は31日投開票の衆院選へさっそく手腕が問われる。

6日に都内で開いた定期大会。芳野氏は「新型コロナウイルス禍で組合活動も岐路に立たされている。組合員の声をしっかり受けとめながら運動を前進させたい」と参加者へ呼びかけた。1989年の発足以来、初めての女性会長となった。

連合は官民の労組の統一体として誕生した。組織の結集で発言力を高め4年後の93年には非自民政権誕生の原動力となった。

戦後の中央組織には大きくわけ旧社会党支持の総評、旧民社党支持の同盟があった。総評は自治労や日教組といった官公庁の労組が中心で鉄鋼業など民間の組合も一部加盟した。
総評は社会党の選挙を支え日米安保反対など大衆運動の中核も担った。

同盟は自動車、電力、繊維をはじめとする民間労組が中心で労使協調の路線を歩んだ。民社党とともに「左右の全体主義との対決」を掲げた。

「労働運動が冬の時代を迎えていた。事態を打開するためにも、統一を急がなければならなかった」。連合の初代会長で日本電信電話公社(現NTT)出身の山岸章氏は官民労組の統一に動いた。

89年に総評と同盟の流れを組むナショナルセンターが連合に合流した。共産党系の労組は連合を批判し同年に全労連を結成する。そのような経緯から連合と共産党は現在も関係がよくない。

山岸氏は組織力を背景に野党間協力の有力プレーヤーとなった。93年の衆院選では自民党を離党した小沢一郎氏とも提携し非自民非共産の細川護熙政権の樹立の立役者となった。
以後は歴代会長には鷲尾悦也氏(旧新日本製鉄)、笹森清氏(東京電力)ら民間企業の出身者が並ぶ。激しい運動は鳴りを潜める。

連合が政治力を発揮したもう一つの例に2009年の民主党への政権交代がある。高木剛会長は06年に民主党代表になった小沢氏とともに地方の連合の組織を行脚した。

民主党が12年に下野してから自民、公明両党の連立政権が続く。古賀伸明、神津両氏は野党への支持を軸にしつつ自民党へ現実的な政策要望を続けた。消費税増税を容認する姿勢も取る。

いま組合員数の多い上位3組織はUAゼンセン(180万人)、自動車総連(79万人)、自治労(76万人)だ。数の上では民間労組主体で官公労は少数派になっている。

連合の政治路線は幅広いが官民間で際立った意見の違いはなかった。14年から安倍晋三政権が本格的に進めてきた安全保障法制で意見の違いが表面化した。

憲法9条を巡り自治労や日教組は護憲論が強い。一方で民間のUAゼンセンは憲法改正論議に前向きな姿勢を示す。安保政策を巡り希望の党に入れなかった旧民進党のメンバーが立憲民主党を結党した際、自治労などが支援した。

連合は立民と国民民主党を支持し次期衆院選でも両党を支援する。両党の橋渡し役になるはずだが、協力はかみ合っていない。立民は共産党との選挙協力に傾斜し国民がそれに反発する。

立民と国民は国会での法案への賛否が割れる場面も目立った。21年の通常国会では一定の所得がある75歳以上の人の医療費窓口負担を2割に引き上げる医療制度改革関連法に立民は反対、国民は賛成した。

「自民党は幅が広くてかんかんがくがく議論するが、決めたらこれでいこうという文化がある。かつての民主党はまじめだがバラバラになった。有権者はどちらを信頼するか」。神津氏は野党が「大きなかたまり」になることを重視した。

立民と国民にとり31日投開票の衆院選は20年9月に現在の政党の体制になってから初の大型国政選挙となる。数選挙区で調整は残るが、大半の小選挙区で立民と国民はすみ分けた。

連合傘下の労組が衆院選と並び重視するのが22年の参院選だ。参院選は比例代表で「身内」の組織内候補を立てる。個人別得票をみると各労組の得票数がはっきりわかるため組織をあげた戦いになる。

衆参の選挙の結果により立民、国民との関係を再考する意見が連合で出る可能性がある。衆院選は直前で参院選も1年を切る。連合の政治力が健在なのか試される。

連合は組合員数の低下に悩む。発足時には800万人といわれた。厚生労働省の調査によると20年は702万人まで低下した。連合以外の労組も含む組織率は00年は20%台を維持していたが20年は17%と下落傾向にある。

組織率の低下とともに組合員の内実も大きく変わってきた。1990年代はじめには10万人ほどだったパートタイムの労働者が2019年には130万人を超えた。

連合の女性の組合員の比率は19年は36%だった。芳野氏は女性が働きやすい環境づくりや女性の組合リーダーの育成を手がけてきた。

1989年の発足から雇用形態や就労環境は変化した。多様化する組合員の統率に芳野氏が自身の経験をどう生かすのかも注目される。
記者の目 組合員の意識も多様に

連合と政治の関わりは成功と挫折の繰り返しだ。非自民の野党を支援し2度の政権交代をなし遂げたもののいずれも長期政権にはならなかった。

2017年の衆院選で当時の民進党が希望の党へ合流した際に連合は支援した。反発する勢力が立憲民主党を結成し分裂した。その経緯から現在でも支援先が立民と国民民主党に「股裂き」になっている。

政策面で連合の主張が非自民政権で劇的に進んだイメージもない。むしろ労組と遠い安倍晋三政権が最低賃金を引き上げ企業に賃上げを要請した。連合のお株を奪ったといえる。
自民党を支持する個々の組合員も増えているという。野党が政権から遠のいたままだと、連合が野党を支援する意義も揺らぎかねない。(依田翼)』

東京・埼玉で震度5強 JR山手線など一時運転見合わせ

東京・埼玉で震度5強 JR山手線など一時運転見合わせ
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE07DSX0X01C21A0000000/

『7日午後10時41分ごろ、東京都足立区、埼玉県の川口市と宮代町で震度5強を観測する地震があった。気象庁によると、震源地は千葉県北西部で、震源の深さは約75キロ。地震の規模はマグニチュード(M)5.9と推定される。この地震による津波の心配はない。

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東京都大田区と町田市、横浜市や千葉市、さいたま市などで震度5弱、茨城や栃木、群馬、静岡など広い範囲で震度3~4を観測した。

気象庁によると、東京23区で震度5強以上を観測するのは2011年3月11日の東日本大震災以来。

政府は7日午後10時43分、首相官邸の危機管理センターに官邸対策室を設置した。松野博一官房長官は8日未明、首相官邸で記者会見し、重傷者が東京都江東区で1人、程度不明の負傷者が16人いると明かした。
地震の影響で電車が運転見合わせとなり、帰宅者らで混雑するJR品川駅の中央改札前(8日未明)

地震発生後、東海道新幹線やJR山手線、東京メトロの地下鉄などが運転を見合わせた。首都高速道路は都心環状線や中央環状線が通行止めとなった。羽田空港も一時4本の滑走路を閉鎖した。

足立区では急停止した日暮里・舎人ライナーの車両が脱輪し、乗客がけがをした。転倒や落下物などでけがをしたとの通報が各地の消防や警察に相次いだ。都内では水道管破裂の通報が数十件あった。

埼玉県草加市では住宅火災が発生。千葉県市原市では川にかかる水管橋から水が吹き出しているのが確認された。

都心のターミナル駅では8日未明になってもタクシーを待つ人の長い列ができた。8日午前5時半すぎの時点で、JR東日本の在来線の一部、東海道線、京浜東北線(蒲田―磯子間)、常磐線(品川―土浦間)、京葉線などで運転見合わせが続いた。

岸田文雄首相は7日午後11時20分ごろ、首相官邸に入った。首相は8日未明、首相官邸で記者団の取材に答え「引き続き情報収集と迅速な復旧に政府としては努めていきたい」と強調した。

気象庁は当初、震源の深さを約80キロ、マグニチュードを6.1と発表したが、その後修正した。
水があふれて冠水した道路(7日、東京都目黒区)
地震の影響で通行止めとなったことを知らせる首都高の電光掲示板(7日夜、東京都千代田区)』

コロナ感染者、120カ国で減少 欧米中心に経済再始動

コロナ感染者、120カ国で減少 欧米中心に経済再始動
供給制約解消、なお時間
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCA073ZO0X01C21A0000000/

『世界の新型コロナウイルスの新規感染者数が減少に転じ、感染力の強いデルタ型の猛威が和らいできた。感染者数が減少傾向にあるのは120カ国・地域に達し、デルタ型流行前の5月中旬以来の水準に戻った。個人消費は腰折れを回避し、欧米では小売りや外食が再び勢いづく兆しが出ている。東南アジアの工場停止に起因する製造業の供給制約解消にはなお時間がかかるとみられるが、デルタ型克服へ経済が再始動しつつある。

米ジョンズ・ホプキンス大によると、世界の新規感染者数(7日移動平均)は43万人と、8月のピークから4割弱減少した。2週間前と比較して感染者が減少傾向にある国の数は9月に増加傾向にある国の数を逆転し、足元では世界の3分の2近くに達した。

コロナワクチンの接種進展を背景に、先進国では春先からサービス業の景況感が大幅に改善した。その直後、デルタ型が急速に流行し、感染者が急増。各国はマスク着用の義務化など緩和した規制の再導入を迫られ、景況感の改善も急減速した。もっとも、重症患者数が抑制されているため、多くの国は厳しい規制には動かず感染症対策に配慮しながら慎重に消費活動の再開を促している。米国や英国は入国制限の緩和に動き始めた。

足元で再び拡大基調を取り戻しつつあるのが、消費関連などのサービス業だ。米グーグルがスマートフォン利用者の位置情報を分析したデータによると、欧米の主要都市では「小売り・娯楽施設」への人出の回復が続いている。フランスのパリでは10月初旬の人出がコロナ前の水準の8割近くまで戻った。レストラン予約サイト「オープンテーブル」によると、英国のレストランの予約数は2019年を2割近く上回っている。

国際民間航空機関(ICAO)によると、国際空港の出発便数はコロナ前の19年10月と比べて、渡航制限緩和の進む欧州と北米では6割まで回復している。厳しい往来制限を続けている国が多いアジアでは依然としてコロナ前の2割にとどまるものの、国際往来の正常化に道が開けつつある。

製造業は世界的なサプライチェーン(供給網)の制約などを受けて回復に頭打ち感が出ており、解消にはなお時間がかかりそうだ。もっとも、供給制約の主因となった東南アジアでは感染の一服で改善の兆しが出ている。東南アジア諸国連合(ASEAN)の製造業購買担当者景気指数(PMI)は半導体工場の生産中止などを受けて、7~8月に44台に落ち込んだ。9月は景気拡大・縮小の節目となる50まで回復し、最悪期を脱しつつある。

ベトナムのホーチミン市では今月から、都市封鎖(ロックダウン)の終了に伴い、工場の規制が緩和された。労働者が自宅から工場に通うことができるようになり、義務付けられているコロナ検査も「回数が大幅に減少した」(工業団地関係者)。物流の混乱は続いているものの、工場の稼働は段階的に正常化に向かうとみられている。

「世界的な需要の増加に対応するため、多くの半導体関連企業は既にフル稼働に戻っている」。マレーシア半導体産業協会のウォン・シューハイ会長は生産活動の回復に胸を張る。政府は従業員の接種率が8割を超える工場にはフル稼働を認めており、経済活動の再開が急ピッチで進んでいる。マレーシアの8月の輸出額は石油、化学製品などがけん引し、955億リンギ(約2兆5300億円)と前年同月比18%増加した。

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