〔Microsoft Windows 3.x〕

 ※ 久々で見たな…。

 ※ うろ覚えだったが、調べてみると、だいぶ記憶と違っていた…。

 ※ 「すべては、忘却の彼方(かなた)へ。」だ…。

 ※ 人生、そんなモンだ…。

『Microsoft Windows 3.x(マイクロソフト ウィンドウズ 3.x)は、MS-DOSを拡張する16ビットオペレーティング環境(Operating Environment:)[注 1]。主なバージョンとして1990年に発売された「Windows 3.0」と、1991年に発売された改良版「Windows 3.1」がある。

その他、マルチメディアに対応した「Windows 3.0 with Multimedia Extensions (Windows MME)」を一部機種で展開するなど、幾度かのマイナーバージョンアップが行われている。英語版ではネットワークをサポートする「Windows for Workgroup(Windows3.1ベース)」も発売されている。また追加モジュールとして32ビットアプリケーションを動作させるための「Win32s」、画像表示を高速化するための「WinG」、AVI形式の動画を再生するための「Video for Windows」、LANに接続するための「LAN Manager」、インターネットやメールをするための「Internet Explorer(16ビット版)」がある。

MS-DOS環境から起動させるため、事前にMS-DOSシステムをコンピュータ上で動作させておく必要がある。しかし、Windows 3.1以前はMS-DOSの拡張製品としてそれぞれが別々に販売されたため、MS-DOSは別途購入する必要がある。 』

『機能

Windows 2.x (Windows 2.11, Windows/386 2.11) の後継となるWindows 3.0は、ユーザーインターフェイスの大幅な改良とIntel 80286や80386プロセッサのメモリ管理機能を有効活用する技術的な改善が行われた。

グラフィカルユーザインタフェース (GUI) 機能を持ち複数のタスクを同時実行できるマルチタスクが可能なことが利点であった。

しかし、1つのWindowsプログラムがCPUを占有してしまいほかのプログラムが止まってしまうこともあった(ノンプリエンプティブ)[6]。

Windows/386ではMS-DOS用のテキストモードプログラムは全画面を占有し、ショートカットキーで画面を切り替える仕様となっていたが、Windows 3.0ではウィンドウ内で動作させることができ、旧来のプログラムも擬似マルチタスクとして利用できるようになった[7]。

しかし、家庭向け市場では多くのゲームやエンターテイメントソフトがMS-DOSへの直接アクセスを必要としていたため、あまり恩恵を受けられなかった[8]。

Windows 2.xはメニューやウィンドウ枠での非常に限られた色しか使うことができなかったが、Windows 3.xのアイコンやグラフィックはEGAやVGAモードで16色を完全にサポート。256色VGAモードやMCGAモードが初めてサポートされた。

また、ディスプレイ出力に使用するカラーパレットはディスプレイドライバが管理し、アプリケーション毎には論理的なカラーパレットが用意されたことで、アプリケーション側はカラーパレットの状態や制限を気にする必要がなくなった[9]。

MS-DOSウィンドウ(ファイルマネージャ・プログラムランチャー機能)は、アイコンベースの「プログラムマネージャ」と一覧ベースの「ファイルマネージャ」に置き換えられた。前バージョンではアプレットとなっていた「コントロールパネル」はAppleのClassic Mac OSと類似のものに作り替えられた[10]。

いくつか簡単なアプリケーションも同梱された。テキストエディタのメモ帳、文書作成ソフトのライト(後のワードパッド)、一連のキー操作やマウス操作をマクロとして記録して後で実行できる「レコーダー」、ペイント、電卓など。ゲームはWindows 3.0ではリバーシに加えてソリティアが搭載された[10][注 2]、Windows 3.1ではソリティア・マインスイーパが付属[注 3]。

Windows 3.0に搭載されたプロテクトモードやエンハンスドモードはDOSアプリケーションで行われていた方法より簡単に、より多くのメモリをWindowsアプリケーションで使えるようになった。

Windows 3.0ではリアルモード(8086相当CPUの機能を利用)、スタンダードモード(80286相当CPUの機能を利用)、386エンハンスドモード(i386相当CPUの機能を利用)があり[11]、通常は自動で適切なモードを選択するが、/r(リアルモード)、/s(「スタンダード」286プロテクトモード)、/3(386エンハンスドプロテクトモード)といったスイッチを使って特定のモードで起動することもできた[12]。

386エンハンスドモードではやや動作が重くなり、実用的には486以上のマシンパワーを必要とした[13]。 』

『プロテクトモードの恩恵

WindowsはWindows 3.0のスタンダードモードおよびエンハンスドモードからプロテクトモードが本格的にサポートされた。

厳密には、WindowsはWindows/386からプロテクトモードを利用しているが、このバージョンでは内部的に80386で導入された機能をプロテクトモードで使用し、アプリケーションには仮想86モードを提供するというものであり、EMS対応MS-DOSアプリケーションと同様に実行プログラムを数百KBという限られたスペースに収まるよう作る必要があった[7]。

またEMSはバンク切り替えがあるため、その切り替え作業にかかる時間だけ低速になる。

特に大規模なアプリケーションはほぼ常時バンク切り替えを繰り返すために低速だった[7]。

これがWindows 3.xのスタンダードモードとエンハンスドモードは、Windowsの大半のモジュールがプロテクトモードで動作する16ビットのコードで構成され、アプリケーション(WIN16アプリケーション)もプロテクトモードで動作する16ビットのコードで構成されるように変更された。

さらにエンハンスドモードでは、80386で導入されたメモリ管理機能をプロテクトモードで動作するシステムのコードに実装し、IA-32のページングを利用した仮想記憶もサポートし、実メモリ以上のメモリをアプリケーションが確保できるようになった。

また Windows 用のデバイスドライバとして、80386で導入された機能をプロテクトモードで活用した VxD デバイスドライバもサポートされた。

従来のWindowsは常にメモリが不足気味だったが、3.0からのプロテクトモードをサポートした結果、Windows自身とそのアプリケーションは、(コンベンショナルメモリ)+(EMS)よりも高速で大量のメモリを使用可能なプロテクトメモリを利用可能になった[14]。

そのため、MS-DOSではメモリ不足から実現不可能だった大型アプリケーションも、Windows用に開発されるようになった。 』

『ユーザーインターフェイス

GUIはマイクロソフトがIBMと共同開発していたOS/2 1.2のプレゼンテーション・マネージャと類似の外観をしている。

ウィンドウのメニューバーとパネル本体という構成やダイアログボックスなど、IBMが提唱したSystems Application ArchitectureのCommon User Access (CUA) におおむね準拠している。

しかし、シフトキーとマウスを組み合わせた操作はCUAでの規定に反しており完全準拠ではない[15]。このデザインはアップルより同社が開発したClassic Mac OSのルック・アンド・フィールを盗用したとしてWindows 2.xとともに著作権侵害が指摘されたが、裁判ではアップルの訴えは退けられ、後に両者は和解した(詳細はWindows 2.0#アップルとの法的抗争を参照)。

ウィンドウ

一番右上(タイトルバーの右端)のボタン[▲]は最大化(全画面表示)のボタンで、既に最大化している場合はウィンドウ表示に戻すボタン(上下に▲と▼が並んだ[◆]状のボタン)が表示される。その隣のボタン[▼]は最小化(タスクアイコン化)のボタンである。Windows 95以降でのウインドウを閉じる[×]に相当するボタンは存在しない。

終了はタイトルバー左上の[-]ボタン(コントロールメニューボックス)やメニューバーからのプルダウンメニューから行えるが、左上の[-]そのものをダブルクリックすることでも終了する[16]。MS-DOSボックスの場合はメニューバーやタイトルバーから終了させることはできず、コマンドプロンプトでEXITと入力する必要がある[注 4][17]。また、エンハンストモードであればControl-Alt-Deleteでアクティブなウィンドウの強制終了が行える。

ポインティング
当時はまだマウスは推奨であって必須ではなかった[18]。セットアップ時にマウス無し(使用しない)を選択することもでき、Windowsの主要システム自体はキーボードだけでも操作できるようになっていた[注 5]。ただし実際にはGUIである以上はマウス前提で作られたアプリケーションが少なくなく、Windows 95以降はマウスが必須になっている。
なお右クリックによる操作はアプリケーション側で対応している場合にのみ有効であり、Windowsを操作する上では特別な意味合いを持っていなかった[6]。Windows標準付属のアプリケーションとしてはペイントブラシやマインスイーパが右クリックを活用できる[注 2]。

シェル

Windows 3.xで標準のシェルは後述のプログラムマネージャというメニューソフトに相当する機能を持つプログラムランチャーだった。また、設定を変更することにより、ファイルマネージャやそれ以外(コマンドプロンプトやNorton Desktopなどのサードパーティー製シェルソフトなど)の特定のアプリケーションをシェルに指定することも可能である。
なお、プログラムマネージャ・ファイルマネージャともに、親画面の中で子画面を複数開くことができた (MDI)。

プログラムマネージャ

プログラムの起動は原則としてプログラムマネージャから行う。プログラムマネージャはプログラムを表す「アイコン」およびアイコンを分類する「グループ」を画面に表示するためのプログラムであり、アイコンをダブルクリックすることでプログラムを起動することができた。ただし、プログラムマネージャ上のアイコン(およびグループ)とディスク上のファイル(およびディレクトリ)との間には対応関係が無く、後のエクスプローラーのようにファイルを操作する機能は統合されていない[6]。

ファイルマネージャ
ファイル操作は、Windows 2.x以前のシェルだった「MS-DOSウィンドウ」に似たファイルマネージャというプログラムで行う。

ファイルのダブルクリックでプログラムを直接実行することもでき、拡張子によるアプリケーションの関連付けもファイルマネージャ上で行うことができる。

Windows 2.xでMS-DOSアプリケーションを実行するにはPIFファイル(情報ファイル)にあらかじめ実行環境を設定する必要があったが、Windows 3.0ではPIFファイルがなくても標準設定で実行するようになった[19]。

MS-DOSウィンドウはファイル名が羅列されるだけであったが、ファイルマネージャでは画面左に現在開いているディレクトリの位置を示すディレクトリツリーが表示され、画面右には項目名とその種類を示す小さなアイコンが一覧表示されるようになった[9]。

プログラムマネージャやデスクトップのタスク(後述)と違って「大きなアイコン」を表示する機能は無い。また、ファイルの種類毎にアイコンが用意されたWindows 95以降と異なり[20]、ファイルマネージャでは自身の持つ数種類のアイコンしか表示できなかった。
ファイルマネージャには2000年以上の年表示が文字化けするという不具合があったが、後に2000年問題対応版がマイクロソフトから配布された[21]。

デスクトップ

デスクトップ[注 6]の領域には実行中のプログラムを最小化したときのアイコンが表示される[16]。Windows 95以降でのタスクバーに相当する場所であった。

Windows 2.xからの変更点として、画像や模様を背景として飾ることができるようになった。デスクトップをダブルクリックするとタスクマネージャに似た画面を呼び出すことができた。』

『マルチメディア(※ 省略)』

『ネットワーク / インターネット

Windows 3.0、3.1では、標準でネットワーク (LAN) 機能自体が搭載されておらず、LAN Manager ClientなどDOSベースのネットワーク機能に頼っていた。

LAN Manager ClientはWindows NT ServerのCD-ROMなどに収録され、TCP/IPやNetBEUI、NetWare互換プロトコルなどのプロトコルが使えた。

また、Windows for Workgroups (WfW) 3.1はWindows 3.1にWindowsベースでのネットワーク機能を付加するアドオンとして発表、販売された。ただし、この段階ではネットワークプロトコルとしてNetBEUIかNetWare互換プロトコルしか選択できなかった。

その後、WfW 3.11が完全なWindows製品として発売され、このWfW3.11向けにTCP/IPプロトコル用ドライバも提供された[30]。

WfWの日本語版は発売されなかったため、日本のユーザーが手軽にネットワークを組むにはWindows 3.1との互換性に乏しく高性能パソコンを要求するWindows NTを購入するか、Windows 95の登場を待つしかなかった[31]。

日本では1994年時点で個人ユーザーにインターネット接続サービスを提供するISPがIIJと富士通(InfoWeb、1999年にニフティへ統合)の2社しか存在せず、まだ黎明期にあった。

1995年に入るとISPは10社以上になり、インターネットを取り扱った参考書も急増した。

しかしWindows 3.1標準ではネットワーク機能は搭載されていないため、市販のInternet CHAMELEON(ネットマネージジャパン、19800円)といったダイヤルアップ接続ツール(ダイヤラー、メーラー、FTPクライアントなどをまとめたパッケージ)を購入するか、パソコン通信を通じてTrumpet Winsockといったツールを揃えていく必要があった。

ウェブブラウザにはNCSA Mosaicやその後に登場してすぐに標準となったNetscape Navigatorが使われた。[32]

Windows 95と同時発売のMicrosoft Plus!に同梱されたウェブブラウザ「Internet Explorer」は1996年4月にWindows 3.1対応の16ビット版が公開され[33]、これにはメーラーのOutlook Express(16ビット版)やダイヤラーなどが添付されていた。

インターネットの閲覧やメールの送受信はInternet Explorer添付のダイヤラーを使ったダイヤルアップの他、LAN Manager Clientをインストールしてある場合やWfWではLAN経由でも可能である。

ただし、Internet Explorer標準添付のダイヤラーはPC/AT互換機用のため、PC-9800シリーズでダイヤルアップ接続する場合は市販ソフトなどを別途用意する必要があった[34]。 』

 ※ ということで、Win95以前では、まだMacの方が、ネットやるには一日の長があった…。

 ※ オレも、この頃は、PowerMac+56Kモデム+Netscape Navigatorでネットに接続していた…。

 ※ 電話回線使った、従量制の接続環境なんで、やたら「電話代」がかかった記憶がある…。

『設定ファイル

各プログラムの設定は、それぞれのプログラムが持つiniという拡張子が付けられたファイル、もしくはwin.iniやsystem.iniなどのWindowsのシステムファイルで行っていた。

Windowsそのものの設定もwin.iniとsystem.iniで行っていた。

これらはテキストファイルであり、標準で付属するシステムエディタ (sysedit) などのテキストエディタで編集を行うことができた。

また、設定変更ミスや諸々のトラブルからWindowsが起動しなくなっても、MS-DOS環境からテキストエディタを使ってwin.iniやsystem.iniの中身を修正して復旧することができた。

これらの設定内容はマイクロソフトが監修した解説書『Windows 3.1 リソースキット』で公開された[35]。Windows 3.1の登録情報データベース(後のレジストリ)は、ファイルマネージャで開くファイルのフォーマットとアプリケーションとの関連付けやOLE情報に使用されるのみであった[36]。

メモリ容量の最大値

Windows 3.0やWindows 3.1では32ビット386プロテクトモードではなく16ビット286プロテクトモードで動作していたため、標準構成では64KBセグメント・メモリモデルを使用するようになっていた。(※ いわゆる、「MS-DOSにおける”64Kの壁”」)

しかし、32ビットCPUではプログラマーはより大きなメモリポインタにアクセスして、プログラム・セグメントをどんな大きさにも拡張することができた(セグメント・ディスクリプタが24ビットであるため最大サイズは16MBに制限されている)。

当時のWindows APIファンクションは16ビットであったため、それらは32ビットポインタを使用できず、コードに32ビット命令を含んでいてもDOSと同様に64KBセグメントでOS呼び出しを行うプログラムコードの一部を配置する必要があった[37][38]。

このため、理論上は4GBのメモリ空間を使用できる386以上のCPUであっても、Windows 3.0は合計16MBのメモリにしかアクセスできない。

Windows 3.1では16MBの制限はなくなり、理論的には最大4GBのメモリを使用できる(現実的な上限は256MB)[39]。ただし、先述のとおり1つのプログラムが使用できるメモリは最大16MBである。

32ビットへの限定的な対応

Windows NTの登場による32ビットOSへの移行を促す意味もあり、Win32sというドライバ/APIがマイクロソフトから供給された。

これはWindows 3.1の386エンハンスドモード上で動作する32bitプログラムのためのドライバ/APIであり(WinNTのAPIであるWin32のサブセットなのでWin32s[要出典])、これによりアプリケーションをWindows 95やWindows NTと共通の32ビットコードでWindows 3.1に供給することが可能になり[40]、初期の32ビットアプリケーションの開発を多少容易にした。

また、ファイルシステムにおいてはBIOSを介した16ビットディスクアクセスが基本的に用いられていたものの、Windows 3.1の386エンハンスドモードでは常設スワップファイルに対してのみ32ビットでのアクセスが可能となった。

さらに、Windows for Workgroups 3.11では完全な32ビットディスクアクセスが実現され、ディスクアクセスを高速化させることを可能にした[41]。 』

『Windows 3.1へのアップグレード(※ 省略)

Windows 3.1から新しいバージョンへのアップグレード(※ 省略)』

『開発とリリース(※ 省略)』

『反響(※ 一部省略)

売れ行きと評価

Windows 3.0

日本においてWindows 3.0は米国ほど広がりを見せなかった。要因として以下の問題が挙がった。

一太郎などWindows 3.0にネイティブに対応するソフトウェアがまだ十分に出揃っていなかった。[73]

当時の日本ではPC-9800シリーズがパソコン市場の50%以上を占めていた。英語版では複数のDOSアプリケーションをウィンドウで並べ、従来の資産も有効に活用できることをセールスポイントにしていたが、PC-9800シリーズ版では旧バージョンと同様に全画面での排他利用しかできなかった。そのため、販売店側も販促デモの展示にあたってウィンドウ表示を活用することに苦慮した。[73]

Windows上でDOSアプリケーションを使用するにはPIFエディタであらかじめ環境設定を行う必要があったが、MS-DOSのメモリ管理は複雑化しており、初心者には難しい作業であった。多くのソフトウェアメーカーは設定方法を公開したが、ロータスやアスキーなどサポートの都合から設定方法を公開しないメーカーも存在した。[74]
PC-9800シリーズを含め、Windowsを快適に動作させるために必要なハードウェアを揃えるとなると多額な投資が必要になった。[73]

スティーブ・バルマー(当時、マイクロソフト上級副社長)も翌1992年の来日記者会見にて同様の見解を示した。

当社のパソコンOS「ウィンドウズ」が日本市場で米国ほど売れていないのは、日米の市場構造が違うことが原因である。ハードウェアの互換性の問題やハードの価格が高いことなどだ。このほか、漢字変換やOSのハードへの搭載サービスなど様々な問題の解決がウィンドウズ普及の前提となる。
?スティーブ・バルマー。「マイクロソフト副社長、日本出荷は予定通り―ウィンドウズNT、来年中。」『日経産業新聞』1992年10月13日、6面の引用文より。

PC-9800シリーズ版の発売当初は受注に生産が追いつかない状況が続いた。これについて日本電気は、受注が予想を上回っているためメディアやマニュアルの生産が追いついていないことを説明した[75]。これに対してソフトハウスの間では「機種の違いで画面に現れるフォント(書体)が異なったり、印刷が狂うなどの不具合を見つけて出荷を止めているのでは。」という推測が流れた[73]。

日本IBMのDOS/V版はMS-DOSアプリケーションの複数ウィンドウ表示に対応していたが、PC-9800シリーズ対応ソフトが約1万本であったことに比べ、1990年に発売されたばかりのDOS/Vに対応するアプリケーションは約200本と少なく、こちらも旧資産の継承という訴求材料だけでは不十分であった[76]。 』

『Windows 3.1

日本のPC国内出荷台数(青線)と出荷額(赤線)(JEITA調べ)

Windows 3.1に対する雑誌の反応は使い勝手や信頼性が向上したという好意的なものであった。米国のPC Magazine誌はレビュー記事に「UAE(修復不可能なアプリケーションエラー)の終わり、新しい印刷エンジン、賢くなったSMARTDriveなど。マイクロソフトはWindowsを安定した豊かな環境にするために磨きをかけた。」という序文を付け[77]、日本の日経パソコン誌は「ドラマチックな変化はないものの、信頼性が低い、処理速度が遅いなど、Windows 3.0での不満点を改良した。」と評した[78]。

マイクロソフト日本法人は自社のWindows対応ソフトの売り込みを強化し、Windowsの普及を推進した。例えば、表計算ソフトのExcel 4.0は1993年5月に98000円から58000円へと40%の値下げ。6月25日から他社の日本語文書作成ソフトを使用しているユーザーを対象に、58000円のWord 5.0を25000円で販売する「乗り換え・アップグレード・サービス」を開始した。これは1993年4月に発売された一太郎 Ver.5(4年ぶりとなる新バージョン)に対抗したものと思われた[79]。同日にWordとExcelをセットにした、日本語版で最初のバージョンとなるMicrosoft Officeを発売[80]。翌1994年2月のOffice 1.5発表までに8万本を出荷し[81]、1994年後半になると月20万本ペースの出荷になる[82]。オフィスソフト市場におけるマイクロソフトのシェアは急拡大することになった。

Windows 3.1のマルチメディア機能は個人市場の開拓を促し、ExcelやOfficeは企業にWindowsの導入を促した[83]。

後年の評価としては、日本でのWindows 3.1はWindowsがパソコンユーザーに受け入れられた期間であったものの、パソコンが本当に一般に普及し始めたのはWindows 95からとされている[84][85]。しかしWindows 3.1の広がりは、日本メーカーの国内向けパソコンを独自開発から世界標準のPC/AT互換機に転換させ、「鎖国状態」を解消したことで競争力が上がり、パソコンの低価格化が進んだことで普及を後押しすることになった[84][86]。 』

『OS/2とIBMとの対立(※省略)』

『日本でのPC/AT互換機市場

PC-9800シリーズと日本国内PC本体出荷台数(1990年から1998年)

折りしも発売時期がDOS/Vの登場とマニア間で起きたDOS/Vブームが重なったこともあり、日本でのIBM PC/AT互換機市場の形成に大いに貢献した。

1991年当時、日本でのパーソナルコンピュータ (PC) 市場は国内メーカーで市場をほぼ独占していた。さらに言えばNECのPC-9800シリーズで寡占状態にあった。PC/AT互換機は世界中で販売されるため開発コストは日本市場でしか販売できない国内専用製品と比べ物にならないほど安価だったが[94]、日本語という障壁のため参入できない状態にあった。NECの製品展開は同社のオフィスコンピュータ(オフコン)などとの兼ね合いから同時期のPC/AT互換機よりも低い性能レベルに据え置かれ、価格も引き下げられなかった[要出典]。しかし、安価かつ高性能なPC/AT互換機で日本語が扱え国産PCとも共通のアプリケーションが利用できるWindowsの事実上の完成により、国内におけるPC/AT互換機市場は1994年にかけて急拡大することになった[20]。NECも同社のPC向けにWindowsを提供していたが、MS-DOS環境において存在していたアプリケーションの優位性が失われる結果となった。

DOS/V版Windows 3.0では、標準VGAでも640480/16色表示が可能で当時の主力機NECのPC-9800シリーズの640400/16色を上回っていたうえ、当時すでにほとんどのDOS/V機ではSVGAモードを備えていた(もしくはグラフィック回路が拡張ボードとして独立しており交換が容易だった)ことから、市販のドライバで800600の高解像度をWindowsから利用することができた[95]。一部の英語版ディスプレイドライバではさらに高解像度・多色(640480/256色、800600/256色、1024768/16色など)のGUI表示を行うためのパッチファイルや英語版ドライバで日本語表示を行う DDD (Display Dispatch Driver) が販売されて上級ユーザを中心にPC-9800シリーズよりもハードウェア価格が安くて高性能なPC/AT互換機を求めるケースが増え、市場が立ち上がり始めた。[96][97]

次のDOS/V版Windows 3.1では多くの英語版ディスプレイドライバを直接使用しても高解像度・多色のGUI表示ができるようになる。また発売にあわせてTVCMも放映され、本木雅弘が「Windows!」を連呼するというインパクトのあるもので[98]、国内においてWindowsの名前を広く知らしめたことにより、PC-9800シリーズにこだわる必要がないというユーザーが増えていった。日本語版Windows 3.1からアウトラインフォント TrueType および、マイクロソフト版においてはかな漢字変換ソフト Microsoft IME が標準として採用され[注 8]、各アーキテクチャ向けにて相違があった日本語の入出力環境の統一を図った。[99][100][101][102]さらにPCパーツ店による組み立てPCや外国のPCメーカーによるこの組み合わせでの新規参入も相次ぎ、市場ニーズがPC/AT互換機へシフトするきっかけとなる。
次に買いたいパソコン(日経パソコン1993年5月調べ)

とは言え、まだこの段階ではPC-9800シリーズも強力だった。オープンであるがゆえに規格の統一が今ひとつのOADG規格とその派生製品はこれらのオプション類の利用にPC-98シリーズより手間を要した。当然、日本のパソコン周辺機器メーカーはPC-9821シリーズのWindows3.1用の周辺機器も発売し、量販効果ですぐに値下がりした。企業ユースやゲーム市場では、PC-98用ソフトの互換性を求めるユーザーもまだ相当数存在していた。更に、製造元であるNECやPC-98互換機メーカーであるセイコーエプソンによる価格引き下げなどの対抗策もあり、1995年まで50%のシェアを確保し続けた[20][103][104]。この流れが本格化するのは、機器の相違をデバイス仮想化などの方法によってOS側で吸収したWindows 95以降である。』

 ※ ということで、「1990年から1998年」の間に、「PC-9800」機は廃れ、「DOS/V」機・PC/AT互換機の時代へと移行して行った…。

 ※ PC/AT互換機は、その「アーキテクチャ」は、ずっと受け継がれて、現在に至っている…。

 ※ BTOとか、「PCパーツ」の交換とかが可能なのは、土台となっている「アーキテクチャ」が変わってないからだ…。

『後継バージョンへの移行

1995年8月に発売されたWindows 95はそれまでパソコンに興味を持たなかった人々の関心を集め、個人市場の開拓に成功した。企業でもWindows 95を要望する従業員の声を聞き入れて買い換えを支援する動きが見られた。日経パソコンが1996年2月に日本の企業110社に対して行った調査では、Windows 95の「導入予定あり」が64%、「未定」が42%、「導入予定なし」が4%となった。「Windows 95の導入をどのように進めていくか」の問いに対して、「新規に導入したパソコンを中心に徐々に移行する」が30%となったものの、「既存のパソコンを含めて積極的に切り替える」はわずか8%に留まり、既存環境の移行には慎重な姿勢が見られた。「Windows 95の導入で、特に問題が多かった項目は」の問いに対しては、「MS-DOS対応やWindows 3.1対応ソフトの動作」(39%)、「既存のネットワークやデータベースとの接続」(35%)、「インストール関連」(32%)となった。[105]

マイクロソフトはOffice 95やVisual Basic 4.0など、自社製品のWindows 3.1に対するサポートをまもなく打ち切った。しかし、1996年度にIDCが行ったデスクトップOS選択率の調査では、Windows 95が62.9%、Windows 3.1/3.11が17.4%となり、データクエストが米国の大企業を対象に行った調査では、マイクロソフト社製OS利用者のうち86%がWindows 3.1/3.11を使用していると報告した。あるソフトウェア・エンジニアは「マイクロソフトはまだ多くの3.1が使われていることを把握しているが、早くすべてを移行してそれを忘れることを望んでいる。」とコメントした。[106]

1999年に日経パソコンが日本の企業を中心に行った調査では、Windows 95の使用率が79.7%にのぼり、Windows 3.1の使用率は6.2%となった。[107] 』

『出荷本数の推移

Windows3.0(全世界)
    1990年5月22日発売
    1990年6月22日 - 40万本[要出典]
    1990年12月30日 - 100万本[要出典]
    1991年5月 - 300万本以上[108]
    1992年4月 - 900万本[91][109]

Windows3.0(日本)
    1991年1月23日 - NEC版発売
    1991年3月13日 - 日本IBM版発売
    1991年5月 - 日本電気版、受注累計6万本[75]
    1993年5月 - 44万本[60][110]

Windows3.1(全世界)
    1992年4月6日発売 - 受注100万本[109]
    初日出荷100万本[111]
    1992年4月12日 - 1週間で100万本販売[112]
    1993年5月 - 2500万本[113]
    1994年1月末 - 4000万本[要出典]
    1995年1月 - 6000万本[要出典]
    1995年8月 - 1億本[111]

Windows3.1(北米)
    1995年5月26日 - 発売から50日で100万本販売[114]

Windows3.1(日本)
    1993年5月12日 - 日本電気版発売
    1993年5月14日 - 日本電気版、受注6.5万本[113]
    1993年5月18日 - マイクロソフト版発売
    1993年6月末 - 40万本[110]
    1994年5月17日 - 146万本[115]
    1995年2月 - 300万本突破[116]
    1995年5月末 - 402万本[116] 』

〔1993年頃の兵頭二十八氏の動向…。〕

『じぶん用の備忘の補備。

 「北緯九十度のハッティ」の初出DATEが判明した。当時、日記代わりにカレンダーにメモ書きをしていた。そのカレンダーメモをテキスト起こししてワープロにまとめていたのを発掘できた。

 前編が載ったのが、1993-11-10都内店頭発売の『ビッグコミック』誌であった。なんと6回も書き直ししていたことも確かめられた。
 すぐに続いて11-17(水曜日)に小学館のパーティがあり、里中満智子先生、永井豪先生、松本零士先生、つのだじろう先生、石森先生、新谷先生、不二子A先生を3Dで目撃してとうぜんながら感激した。しかも、入口には私の提供原作のゴルゴのエピソードが《今度は深海へ》とかいうキャッチコピーとともに看板化されていたのだから、密かに鼻が高かった。

 後編は、1993-11-25に都内店頭発売であった。
 しかしこの頃のカレンダーのメモ書きを見返すのは辛い。私生活ではいかにもバブル崩壊期らしい波乱が次々起きていた。その記憶をよびさまされた。
 おしまい。』

 ※ コンピューティングの歴史的には、「Windows95」の発売が、1995年だ…。

 ※ 折からの、ネットの普及・実用化とGUIが相まって、爆発的にパソコンが行き渡って行った…。

 ※ その数年前だから、まだDOSの時代だったか…。

 ※ 「Windows95」は、DOSのバージョン的には、「DOS7」だ…。

 ※ ハードの普及状況が、まだ16bitと8bitの混在だったんで、Windows95も「16bitと8bitの混在」OSだった…。

 ※ DOS5でMOが使えるようになり、DOS6でやっとOSレベルで「Windowsシェル(GUIでファイルやフォルダの操作が可能となった…)」が使えたと記憶しているが…。

 ※ 「Windows3」というものもあった…。

 ※ DOS6の「Windowsシェル」の先駆けみたいな感じのもので、「ファイルやフォルダの操作」をGUIで行うことができるものだったらしい…。

 ※ 「らしい」と言うのは、「英語版」しかなく、日本では殆ど使っている人がいなかったからだ…。

 ※ オレも、文献読んだだけで、実物は見たことが無い…。

 ※ DOSの時代の「パソコン」は、まだ、「ワープロに毛が生えた程度のもの」だった…。

 ※ そういう時代でも、「自分の頭で考える」人は、「日記代わりにカレンダーにメモ書き」して、自分の「思考」を深めて行った…。

 ※ そして、「そのカレンダーメモをテキスト起こししてワープロにまとめて」、「思索」を深めて行った…。

 ※ そのテキスト・データは、今現在でも「活用すること」ができる…。

 ※ 「私生活ではいかにもバブル崩壊期らしい波乱が次々起きていた。その記憶をよびさまされ」て、つらい思いが甦るとしてもだ…。

トルコ・ロシア首脳会談、地対空ミサイル追加購入協議か

トルコ・ロシア首脳会談、地対空ミサイル追加購入協議か
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR29F210Z20C21A9000000/

『【モスクワ=石川陽平】トルコのエルドアン大統領は29日、ロシア南部の保養地ソチを訪れ、プーチン大統領と会談した。首脳会談の冒頭、ロシアとの軍事協力について「後退はない」と言明した。米国が反対するロシア製地対空ミサイル「S400」の2基目の購入について協議したとみられる。

エルドアン氏はプーチン氏との会談の冒頭、ロシアとのこれまでの軍事技術協力の成果を強調し、「このことを話すのは有意義だと思う」と語った。会談後には「生産的だった」と語った。シリアやアフガニスタンの情勢も協議したもようだ。

トルコは2017年にロシアとの間で初めて「S400」を購入する契約を結び、19年に納入が始まった。トルコも加盟している北大西洋条約機構(NATO)を主導する米国から対ロシア制裁法に基づく経済制裁を受けているほか、次世代戦闘機「F35」の開発プロジェクトからも締め出された。

エルドアン氏は先週、国連総会に出席するために訪れた米国で米CBSのインタビューを受け、「我々がどんな種類の防衛システムをどの国から買うかに関しては、誰も介入できない」と述べ、ロシアから2基目の「S400」を購入する考えを強く示唆していた。』

「アフガン居たら命を失う」 邦人保護の脆弱さ浮き彫り

「アフガン居たら命を失う」 邦人保護の脆弱さ浮き彫り
アフガンに惑う世界(4)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA16E9W0W1A910C2000000/

『「危機管理という観点から法改正を議論しないといけない」。29日の自民党総裁選で勝って新総裁に就いた岸田文雄は総裁選中、アフガニスタンへの自衛隊派遣の教訓を語った。日本の邦人保護の脆弱さが浮き彫りとなり衝撃を受けた一人だ。

首都カブールがイスラム主義組織タリバンの手に落ちた8月15日。「ここにとどまりたい」。現地にある日本大使館の職員数人からの訴えを外務省は「そのまま居たら命を失うからだめだ」と却下した。

この時、米英などはすでに軍用機や軍隊を現地に送っていた。市内で銃撃戦が起き、軍がいなければ危ないと判断したためだ。軍のヘリコプターを大使館の屋上まで飛ばして職員らを退避させた国もある。

カブール陥落は日本政府の想定外の早さだった。自衛隊に派遣命令をだしたのは23日。15日時点で当然現地にいない。米軍ヘリでの移動を依頼したが断られた。

「とにかく生きていてほしい」。次官の森健良ら外務省幹部の頭には万が一の事態もよぎったという。結局、上空から米軍ヘリによる監視を受けてなんとか空港に到着。英国軍用機でアラブ首長国連邦(UAE)に逃れた。

現地に日本大使館の現地職員らは残っていた。救出を目指した自衛隊機の輸送機が26日にカブール空港に到着したものの自衛隊員は降りたってしばらく立ち尽くした。助けるべき職員らの姿がなかったからだ。

自衛隊法上の制約で自衛隊員は安全を確保できない空港の外には出られない。役割は空港から第三国への輸送に限られる。

出国希望者は争乱状態の市内から空港まで「自力での移動」が求められた。アフガン人職員を含む500人を救出する任務だったが、空港にたどり着けたのは邦人1人だけだった。

帰国後に悔しさを訴えた自衛隊員は多い。「フィクションの世界でつくられた法体系のせいで命を守れなかったら元も子もない」。自民党国防部会長の大塚拓は再考のきっかけにすべきだと主張する。

韓国や台湾在住の日本人はそれぞれ4万人と2万5千人ほど。朝鮮半島や台湾での有事の退避シミュレーションは十分か。「想定外の事態」との言い訳は通用しない。(敬称略)

馬場燃、中村亮、木寺もも子、羽田野主、石川陽平、飛田臨太郎が担当しました。

【ルポ迫真「アフガンに惑う世界」記事一覧】

・「必ず殺される」 タリバン報復におびえる市民
・アフガン難民の受け入れ「もう限界」
・「米欧はパンドラの箱開けた」 アフガン巡りプーチン氏 』

[FT]西アフリカにロシアから傭兵か 仏軍撤収の穴埋める

[FT]西アフリカにロシアから傭兵か 仏軍撤収の穴埋める
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB012CV0R01C21A0000000/

『西アフリカ、コートジボワールのワタラ大統領は、隣国マリがイスラム過激派との戦闘でロシアの民間軍事会社ワグネルと契約すれば、この地域の国々にとっての「自殺行為」となり、それは「越えてはならない一線だ」と述べた。

コートジボワールのワタラ大統領(左)と話すフランスのマクロン大統領(5月、パリの国際会議)=ロイター

5月のクーデターで全権を掌握したマリの軍事政権は、フランスが反体制勢力の制圧で協力を放棄したと批判し、「ほかのパートナーを探す」権利があると主張する。

マクロン仏大統領は7月、サハラ砂漠南部のサヘル地域でイスラム過激派を掃討する「バルハン作戦」で派遣する兵士を2500人に半減させ、司令部をマリから同国の隣のニジェールに移す計画を発表した。

ロシアのラブロフ外相は9月25日、マリ政府が「外部からの支援なしで(イスラム過激派に)十分には対応できない」と考え、ロシアの複数の民間軍事会社に協力を求めたと明かした。マリは近く、ロシアから1000人の傭兵を迎え入れる見通しだと報じられているが、ロシア政府はこの契約への関与を否定している。

ワタラ氏はコートジボワールの憲法の規定に反し、2020年11月から大統領として3期目に入った。同氏は取材に対し、マリ政府がワグネルと契約する場合、強まるテロの脅威に対抗するため力を合わせることはできないと明言した。

ワタラ氏は「まずフランスが部隊を撤収させる。ドイツも同じ意向を示している。国連もミヌスマ(1万5000人規模の平和維持軍)を解散させるに違いない」と説明した。「その場合、マリはどうするのか。単独で戦うことはできない」

マリの軍事政権、ロシアの民間軍事会社「ワグネル」と契約へ
ワグネルについては「民兵組織だ。連中がシリアや(ウクライナ東部の)ドンバス、中央アフリカで何をしたのか明らかだ」と言い切った。

国連調査団は、ワグネルが派遣した傭兵が中央アフリカで残虐行為に関わったと指摘する。18年にはシリアで、ワグネルの要員が米軍への攻撃に加わったとみられている。 

マリのマイガ首相はニューヨークの国連総会で演説した際、フランスによる駐留部隊の縮小決定を批判した。

「バルハン作戦が終われば事情が変わり、マリは既成事実の受け入れを迫られる」とマイガ氏は演説で語った。「そのため自国だけで、あるいはほかのパートナーとともに、安全保障を強める方法を探る必要がある」と指摘した。 

パルリ仏国防相は、フランスがマリを見捨てたという見方を否定する。「サヘル地域には数千人の兵士や真新しい戦車を派遣している。それは撤収を模索する国の態度ではない」というわけだ。

コートジボワール大統領「西アフリカの安全保障は自力で」

コートジボワールのワタラ氏は、フランスの駐留部隊縮小の決断に理解を示す。フランスは13年、マリ北部からイスラム過激派を排除するため軍事介入を始め、その後も同国に部隊を駐留させてきた。

フランスは軍事作戦の軸をニジェールに移す考えだ。ニジェールでは隣国のブルキナファソとともに、大きなテロが起きるリスクが高まっている。 

フランス軍はイスラム過激派対策でマリに部隊を駐留させてきた(2017年、マリの基地)=ロイター

ワタラ氏は「(フランスが)私たちのお願いした通りに行動した」と語った。「自国の安全保障をいつまでも外国の軍隊に頼るべきではない」という考えを表明した。

マリだけでなく、テロリストの標的である西アフリカ諸国が兵士を募り、訓練し、軍備を整え始めるべきだとワタラ氏は主張する。「私は1年前に『フランスが遅かれ早かれ撤収するのは明らかだ』とこうした国々に伝えていた」と語った。西アフリカ諸国は国境管理がほとんどできていないのが実情で、テロ組織の脅威に対抗するには国家間の協力を一段と緊密にしなければならないと述べた。

ワタラ氏は、コートジボワール北部の国境地帯が度重なる攻撃にさらされたため、防衛体制を強化したことも明らかにした。20年6月には、ブルキナファソとの国境に近い(北部の)カフォロでコートジボワールの兵士が14人、殺害された。

「部隊の増員、装備の拡充、兵士の待遇改善、(マリやブルキナファソと接する北部の)国境への人員配置などあらゆる面で、できることを全て試している」

ワタラ氏は20年の前回のコートジボワール大統領選でいったん、後継候補を擁立したが、投票日の前にその候補が死亡した。そこため3選出馬に踏み切ったが、批判を浴びた。(同様に)西アフリカ諸国では指導者たちが地位にしがみつき、クーデターが起きやすくなっている。こうした状況で、地域が不安定になっている現状をワタラ氏は懸念する。9月にはギニアで、20年の大統領選を前に連続3選を可能にする憲法改正に踏み切ったコンデ大統領(当時)が、軍部によって追放された。

ワタラ氏は、コンデ氏に問題があったと認める一方、あらゆるクーデターを非難すると述べ、民主主義が速やかに、この地域に再び広がる必要があると強調した。西アフリカ諸国の首脳陣はマリの軍高官に対し、22年2月までに選挙を実施し、軍事政権を終わらせるよう求めているとも明かした。ワタラ氏は「その点で譲歩する用意はない」と言明した。「(マリの軍事政権が)応じなければ、私たちが(マリへの)制裁を強めるまでだ」

By David Pilling

(2021年9月30日付 英フィナンシャル・タイムズ電子版 https://www.ft.com/)

(c) The Financial Times Limited 2021. All Rights Reserved. The Nikkei Inc. is solely responsible for providing this translated content and The Financial Times Limited does not accept any liability for the accuracy or quality of the translation.

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中国国産旅客機、中核部品の4割が海外頼み

中国国産旅客機、中核部品の4割が海外頼み
COMAC、初号機を年内にも引き渡し 輸出ハードルは高く
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM290FJ0Z20C21A9000000/

『【珠海=比奈田悠佑、川上尚志】中国旅客機メーカー、中国商用飛機(COMAC)によるジェット機の国産化が進んでいる。米欧の大手に対抗する本格機種の試験が大詰めを迎えており、早ければ年内にも初号機を顧客へ引き渡す。ただ旅客機の核を担う部品やシステムは約4割を海外勢へ依存する。米中対立などの政治リスクを抱えるなか、海外輸出もハードルが高くなっている。

「ボーイングとエアバスだけでは需要を満たせない。我々が新しい選択肢を提供することがエアライン(航空会社)の利益にもつながるはずだ」。9月28日、中国国際航空宇宙博覧会(珠海エアショー)でCOMACが開いた発表会。販売促進の担当幹部は開発試験中の小型旅客機「C919」について胸を張った。珠海エアショーでは機内客室を原寸大で再現したモデルを披露し、関係者にアピールした。

C919は世界で最も売れ行きの良いボーイング「737」やエアバス「A320」と同サイズで、米欧が牙城を築く航空機産業に切り込むための戦略機種だ。今回のエアショーではデモフライトや実機の展示を見送ったが、商用飛行に向けた開発は大詰めにあるとの見方が強い。

今年1月、COMACが本社を置く上海市で開かれた政治会議でC919に関わるパイロットや整備人員の資格ルールの検証が進み、年内に関係認証を取得する流れが明らかになった。三大エアラインの一つの中国東方航空も3月、調達契約を正式に結んだ。

政府と大手航空の支持もあり、早ければ年内にも第1号機を納入するもよう。中国共産党の習近平(シー・ジンピン)指導部は過去、2025年までに主要航空路線で旅客機の国産化率を10%超に引き上げる目標を掲げたことがある。C919は国産化の加速を担う。

ただ国産機のビジネスの前途には課題も見え隠れする。中航証券などの資料を整理すると、C919の中核サプライヤー39社のうち4割強が米国など海外勢だ。残る6割弱も一部には外資大手との合弁企業が含まれる。

胴体や翼などは中国勢が供給するが、通信や飛行管理のシステム、エンジンなど旅客機の頭脳や心臓部は米欧のサプライヤーがずらりと並ぶ。会社数ベースのシェアは4割程度だが、金額ベースでは海外依存度は一段と高まるもよう。「国産機」と呼べども、海外頼みなのが実情だ。

特に国内での開発製造が難しいとされているのがエンジン。現在は米ゼネラル・エレクトリック(GE)と仏企業の合弁会社、CFMインターナショナルが生産するエンジンを搭載する予定だ。将来的には軍用エンジンなどを手がける中国航空発動機の系列企業が開発する「CJ1000A」の採用も検討しているが、「2030年前後の市場投入になる」(浙商証券)などと、実用化にはまだ時間がかかるとする見方が大勢だ。

CFM製エンジンに関しては米国のトランプ前政権が20年2月、中国への供給制限を検討していることが明らかになった。その後トランプ氏自らが中国へ提供する意思を表明し、いったんは危機が去ったようにみえるが、スマートフォン生産における半導体同様、大きな政治リスクがあることがあらためて浮き彫りになった。

事業拡大に向けたもう一つのハードルが、航空当局が機体の安全性を認証する「型式証明」だ。現在は米欧当局がデファクトスタンダード(事実上の標準)を握っており、多くの国が追随するかたちをとっている。中国の航空当局も独自に認証作業をしているが、諸外国への影響力は低く原則としては国内で商用飛行が可能になるだけだ。輸出によって量産規模を押し広げられず、産業全体の成長速度を高められない。

そのため海外で通用する認証の取得は悲願だ。C919も当初は、欧州での認証の取得に動いていたことが分かっている。しかしその後、動静は聞こえなくなっている。

それだけ技術的ハードルが高いということだが直近、中国にとっては別の逆風も吹きつつある。米欧で長年続いていた航空機産業を巡る摩擦の雪解けだ。今年6月に開いた米EU(欧州連合)首脳会議では航空機産業への補助金を巡る紛争を終結させることで合意した。航空宇宙、防衛分野で急速に力をつける中国への警戒を共通認識としたことが背景にある。

中国にとっては米欧に吹く隙間風に乗じて認証を得たり、国境を越えた産業連携を強化したりするのが簡単ではない地合いになりつつある。当面は主に国内市場をあてに産業を育てるしかない。

COMACが9月28日、珠海エアショーで発表した旅客機の市場予測によると20年の世界の保有機数のうち中国は20%を占め、北米(29%)に次いで地域別で2位だ。一方、40年には中国は22%にまで拡大し、世界首位に躍り出るという。

実現性はさておき、国土の広さや人口の多さから当面の内需が大きいのは間違いなく、産業育成の武器になる。ただ過度な国内産業の保護は米欧の反発を招いて世界展開が難しくなる可能性があり、さじ加減は難しい。』

自民新執行部が発足 財務相に鈴木俊一氏起用へ

自民新執行部が発足 財務相に鈴木俊一氏起用へ

岸田体制始動 幹事長・甘利氏、政調会長・高市氏
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA010YI0R01C21A0000000/

 ※ 甘利さん、ついに「幹事長」になったな…。

自民・甘利氏「菅、二階の負のイメージが国民に定着」
https://http476386114.com/2021/09/07/%e8%87%aa%e6%b0%91%e3%83%bb%e7%94%98%e5%88%a9%e6%b0%8f%e3%80%8c%e8%8f%85%e3%80%81%e4%ba%8c%e9%9a%8e%e3%81%ae%e8%b2%a0%e3%81%ae%e3%82%a4%e3%83%a1%e3%83%bc%e3%82%b8%e3%81%8c%e5%9b%bd%e6%b0%91%e3%81%ab/

 『 ※ オレは、ずっとこの人の「幹事長」の目はあると思って来た…。

 ※ なにせ、「胆力」は屈指のようだからな…。

 ※ T…交渉の「手腕」は、凄かった…。「国益」をかけて、一歩も引かなかった…。

 ※ それで、某国の覚えは、目出度く無くなった…。

 ※ 結局、秘書の不祥事が発覚して、引責で表舞台からは退いた形になった…。

 ※ アレも、リークくさい事件だった…。

 ※ 乱世向きの人材だと思うんで、情勢次第では、再び表舞台に立つことも、あるだろう…。』と書いた…。

 ※ 麻生派と岸田派をつないだ、岸田政権誕生の立役者だ…。

 ※ 「幹事長」に据えても、まず「どこからも、表立った”異論”は、出ない」力量なんだろう…。

 ※ TV視てたら、また「秘書の事件」の「説明責任」とやらを、蒸し返されてた…。

 ※ もう、6年も前の話しになるんだな…。

 ※ 鈴木俊一氏の財務相は、意外(かつ、ノーマーク)だった…。

『自民党の岸田文雄総裁は4日の首相就任後の組閣で、財務相に麻生派の鈴木俊一氏を起用する意向だ。1日午後に党本部で臨時総務会を開き、新たな党執行部を正式に決めた。幹事長に甘利明税制調査会長をあてた。総裁選で岸田氏を支持した派閥などのバランスに配慮した。

【関連記事】幹事長や政調会長…自民党の要職、その役割は何か

岸田氏は同日午前、党本部で記者団に「新しい気持ち、強い気持ちでこれから体制づくりに臨んでいきたい」と語った。

党四役は総務会長に福田達夫氏、政調会長に高市早苗氏、選挙対策委員長には遠藤利明氏を起用した。党運営の要となる幹事長は2016年8月から5年間務めた二階俊博氏から交代した。

新執行部は1日午後の発足後、初めての役員会を開いた。その後、記者会見に臨む。岸田氏は国会内で公明党の山口那津男代表と会談し、連立政権の合意文書に署名する。

鈴木氏は麻生太郎副総理・財務相の後任として予算編成や経済対策策定の要を担う。麻生氏は党副総裁に就く。

鈴木氏は今回の党総裁選では岸田氏の推薦人代表を務めた。岸田氏が率いる宏池会(現岸田派)の第4代会長、鈴木善幸元首相の長男で、麻生氏の義弟にあたる。党総務会長や環境相、五輪相を歴任した。

岸田氏は総裁選で自ら率いる岸田派のほか、最大派閥の細田派、麻生派、竹下派などから幅広く支持を得た。これらの勢力を軸に党の枢要ポストを割り振る。

甘利氏は麻生派に所属し、総裁選で岸田陣営の選対顧問を務めた。衆院選を目前に政調会長や選対委員長の経験もあるベテランを党の中枢に据える。幹事長代理には麻生派の田中和徳氏をつける。

総務会長になる福田氏は当選3回の衆院議員だ。細田派に所属する。今回の総裁選を巡り、当選3回以下の衆院議員90人ほどでつくる「党風一新の会」の代表世話人として総裁候補らに中堅・若手の声を訴えた。

総務会は党の最高意思決定機関で、政府が国会に提出する法案や条約などを審査する。当選3回の福田氏の運営手腕に注目が集まる。

政策責任者の政調会長の高市氏は岸田氏と総裁選を競った。安倍晋三前首相らの支援を受け、1回目の投票の議員票で岸田氏に次ぐ2位だった。岸田氏と河野太郎氏による決選投票では岸田氏の陣営と協力関係を築いた。

選挙の公認候補の調整などにあたる選対委員長の遠藤氏は谷垣グループに所属する。総裁選で岸田陣営の選対本部長を担った。

国会運営で野党と交渉する国会対策委員長は細田派の高木毅衆院議院運営委員長の就任が内定した。組織運動本部長に竹下派の小渕優子氏が就き、幹事長代行に無派閥の梶山弘志経済産業相をそれぞれ起用する。

決選投票を戦った河野氏は広報本部長にまわった。SNS(交流サイト)を通じた知名度の高さを生かす。

臨時国会が4日に召集される。衆参両院の首相指名選挙で同日午後に岸田氏を第100代首相に選び、同日中にも新内閣が発足する。官房長官には細田派の松野博一氏を登用する。

衆院議員は任期満了を21日に控える。岸田氏は所信表明演説と各党の代表質問を実施した後、10月中旬にも衆院を解散する公算が大きい。衆院選の投開票は11月前半になる見込みだ。

【関連記事】

・岸田新体制固まる 甘利幹事長・高市政調会長
・岸田氏、派閥との調整優先 正式決定総裁選の2日後に
・官房長官に松野博一氏起用へ 岸田新総裁

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幹事長や政調会長…自民党の要職、その役割は何か

幹事長や政調会長…自民党の要職、その役割は何か

広報本部長は「大物」河野氏起用
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA30DZB0Q1A930C2000000/

『自民党は1日午後、臨時総務会を開き、新たな党執行部を決めた。幹事長に甘利明、総務会長に福田達夫、政調会長に高市早苗の3氏が就任した。党執行部人事を3つのポイントから読み解く。

・幹事長はそんなに力があるのか
・そもそも政調会長とはどんな仕事をするのか
・河野太郎氏が就く広報本部長とは何か

(1)幹事長はそんなに力があるのか

幹事長に就く甘利氏

幹事長という名称自体、一般の会社のポストとしてはなじみがあるとはいえない。自民党では総裁に次ぐポストなので、会社に置き換えれば、ナンバー2の副社長などに相当する。総裁(首相)が首相官邸に常駐して公務にあたるため、党務を総裁に代行して取り仕切る役割だ。

力の源泉は、選挙(人事)、おカネ、政策の3つになる。選挙は公認するかどうかの人事権からどの選挙区を重点選挙区にして資金を手厚く配分するかの判断もする。その際の資金は政党交付金などが原資となる。

総務省が4月に決定した2021年分の自民党に配分する政党交付金は170億2163万円だ。これが党運営全体に使われ、その差配をする。

人事とおカネを握るため、政策にも影響を与えることができる。20年7月、自民党の外交部会が中国の習近平(シー・ジンピン)国家主席の国賓来日を中止するよう求める決議をした際の顚末(てんまつ)は典型だ。原案の「中止を要請する」から「中止を要請せざるを得ない」に弱まったのは、二階俊博氏が「外交部会長か何部会長か知らんが、そう軽々に判断すべきものじゃない」とすごんだのが一因だった。

(2)そもそも政調会長とはどんな仕事をするのか

政調会長になる高市氏

この政調会長も永田町独特の呼び名だ。正式名は政務調査会長。会社に当てはめると経営計画づくりなど社長を補佐する経営企画の部署の役割に近い。政調会長はその担当役員と重ね合わせることができる。外交・安全保障から経済財政、通商、エネルギー、教育など政策のすべてにわたる党の最高責任者であり、党の命運をかける選挙の公約づくりを担う。

政調会長のもとには政策テーマごとに分かれた部会がある。部会ごとにまとめた要望は毎年度の予算案に反映される。いわゆる族議員と称される議員は、自らの専門とする政策を部会や各府省庁のポストを歩みながら深め、その分野の専門家と目されるようになる。

古くは田中角栄氏が池田勇人政権で政調会長に抜てきされ、出世街道にのったのは有名だ。岸田文雄氏は政調会長時代、お世辞にも政策づくりで目立っていたとは言えない。半面、総裁選の公約で掲げた党役員の任期を「1期1年、3期まで」という政策は、政調会長として党全体を見渡す経験も生かされた。下村博文氏は総裁選に出馬するか否かで話題になったものの、政策づくりでの印象は乏しかった。

(3)河野太郎氏が就く広報本部長とは何か

広報本部長に起用する河野氏

SNS(交流サイト)での発信など自民党がここ数年、打ち出してきたのが広報体制の強化だ。会社の広報部門と同じく組織の宣伝と理念・政策の浸透が目的だ。機関紙「自由民主」は毎週火曜日に発行し、「自由民主」の電子版は毎週木曜日に更新している。女性ならではのしなやかな発想を取り入れたとうたう月刊誌「りぶる」なども出している。

副総裁を含めて党八役と言う場合、この広報本部長も入る。河野氏の前任は有村治子参院議員。広報体制の強化という文脈で言うと河野氏という大物の配置は、その線に沿っているが、党内では要職起用の見送りに主眼があるとみられている。

党四役は幹事長、総務会長、政調会長に選挙対策委員長が加わる。時代は変わっても重みがあるのは、党三役だ。幹事長に次ぐポストである総務会長は、自民党の最高意思決定機関の総務会を取り仕切る。党として重要な政策方針などを決定する際、ここで了承を得なければならない。

かつては総務会が政局の起点となる場合があり、総務会長にはその後、首相になった鈴木善幸氏など重鎮が就任するケースが多かった。一方で第2次安倍政権以降「安倍1強」と評されたように、党側のプレゼンスは下がった。今回、当選3回の福田達夫氏が抜てきされたのは、そんな官邸と党の力関係の変遷とも無縁ではないかもしれない。

(政治部長 吉野直也)

【関連記事】
・自民新執行部が発足 財務相に鈴木俊一氏起用へ
・自民新執行部が始動、財務相は鈴木氏 岸田人事を追う
・岸田氏、派閥との調整優先 正式決定総裁選の2日後に 』

〔議院内閣制〕

※ 議院内閣制の上位概念は、「三権分立制」だ。

※ この図は、中学三年の「公民」で習う内容だ…。何となく、見たような感じを抱く人が多いだろう…。

※ 議院内閣制は、下記の説明にもある通り、立法府と行政府の分立を厳格に追及せず、一応分離しつつ、両者が「連絡し合う」ことを公認して、「抑制・均衡」よりも、「法律の制定・実行の効率化」の価値を優先したものだ…。

議院内閣制
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B0%E9%99%A2%E5%86%85%E9%96%A3%E5%88%B6

『議院内閣制(ぎいんないかくせい、英: parliamentary government/cabinet system)とは、行政権の主体たる内閣を議会(特に下院)の信任によって存立させる政治制度[1][2][3][4][5]。』

『概説

議院内閣制は議会と政府との関係の点から見た政治制度の分類の一つで[6]、議会と政府(内閣)とが分立した上で、内閣は議会(特に下院)の信任によって存立する政治制度である[1][2]。議会制民主主義の発祥国でもあるイギリスで誕生した政治制度であり[1][7][8]、そこでは首相が内閣を、内閣は多数党を、多数党は議会を、それぞれ統率・指導・統制し、議会の多数党は国民の投票によって決定される[9]。

議院内閣制を他の政治制度と比較すると以下のような特徴によって表される。

・議院内閣制(parliamentary government / parliamentary cabinet system、イギリス型)

行政府の主体たる内閣は議会(二院制の場合には主に下院)の信任を得て存立する政治制度[6][10]。

権力分立の観点からみると、議会統治制とは異なり議会と政府は一応分立しているものの、大統領制のような厳格な分離はとられず、政府(内閣)は議会の信任によって存立する[1]。

また、民主主義の観点からみると、内閣の首班(首相)は議会から選出されること、内閣は議会(特に下院)の信任を基礎として議会は内閣不信任を決議しうること、首班には法案提出権が認められること、内閣の構成員たる大臣はその多くが議員であること、大臣には議会出席について権利義務を有することなどを特徴とする[11]。

また、内閣には議会解散権が認められているものの、議会解散権については議院内閣制一般に認められる本質的要素とみるか否かで、後述のように責任本質説と均衡本質説が対立する[11]。

・超然内閣制(※ 戦前の内閣は、これか…。)

政府(内閣)は君主に対してのみ責任を負うものとされ、議会に対しては責任を負わない政治制度[6]。

・大統領制(presidential system、アメリカ型)

今日では議院内閣制と並ぶ代表的な政治形態であり、立法権と行政権を厳格に独立させ、行政権の主体たる大統領と立法権の主体たる議会をそれぞれ個別に選出する政治制度[6][12][13]。

その特徴としては、大統領は議会選挙からは独立した選挙により国民から直接選出されること(アメリカ大統領選挙は制度上においては間接選挙であるが、実質的には直接選挙として機能しているとされる[10])、原則として大統領は任期を全うすること(弾劾制度が設けられているが、弾劾の事由は狭く限定されたものとなっている[10])、大統領には法案提出権や議会解散権が与えられていないこと、議員職と政府の役職とは兼務できないこと、政府職員は原則として議会に出席して発言できないことなどを特徴とする[14][10]。
・半大統領制(semi-presidential system、フランス型)

議院内閣制と大統領制の中間に位置する制度。議院内閣制の枠組みを採りながら、より権限の大きな大統領を有する政治制度。

・議会統治制/議会支配制(assembly government、スイス型)

政府は独立性を有さず、議会の指揮下におかれている政治制度(内閣不信任や議会解散権はない)[6][13]。

政治モデルとしては、アメリカ型大統領制が立法権と行政権を厳格に分離し権力の分散という点を強調し権力分立を指向するのに対し、イギリス型議院内閣制は立法権と行政権が政権党によって一元化され強力な内閣のもとに権力の集中を容認する制度であるとされる[15][16]。

議院内閣制の場合、一般的には議会で多数をしめる政党が政権を担当し与党となる[17]。
大統領制の場合には、議会の少数党であっても大統領が所属する政党が与党である。

議院内閣制の場合、立法権を持つ政党が行政権も担当していることから、厳格な権力分立を指向する大統領制に比して、強い政治権力を有している[18]。

したがって、議院内閣制には集権性・集約性がみられるとされ、特にイギリスでは首相統治制・二大政党制を背景に首相権力の強い議院内閣制となっている[9]。

国民による公選によって選出される大統領とは異なり、議院内閣制における内閣は国民から直接選ばれるわけではないため、自らの民主的正統性の根拠について議会からの信任に依拠することになる[19]。

議院内閣制の下では原理的には議会は内閣に優位することになり、アメリカ型の大統領制に比して権力分立という自由主義的側面は後退することになるが、国民(有権者)→議会(議院)→内閣(首相・大臣)→行政各部(官僚)という権限の委任と監督の連鎖と、内閣→議会(議院)→国民(有権者)という責任の連鎖を構築することによって行政権の民主的コントロールを確保するとともに、議会の多数党派が行政部の中枢機関を担うこととして政治上の責任の所在を明確にして民主主義的要請に応えようとする制度であるとされる[20][21][16]。

大統領制の下では大統領と議会とは別々に選出されるため民意は二元的に表れる二元代表制であるのに対し、議院内閣制では議会のみが選挙により選出されて内閣はそれを基盤として成立するため民意は一元的に表れる一元代表制である[22]。

そして、議院内閣制の下で議会と内閣の協働関係が破綻した際には、内閣不信任決議、内閣総辞職、議会解散権の行使のいずれかによって解決が図られる[23]。

議院内閣制では議会多数派が政権を握ることになるため、基本的に与党の分裂や連立与党の関係破綻などの問題を生じない限り首班が提出した議案は成立する[24]。

議院内閣制の下では立法及び行政の統治責任は、議会を支配し現に内閣を組織している政権党に一元化される。議会選挙では内閣与党の治績の良否、政策競争の優劣などの点から国民の審判を仰ぐことになる[24]。

以上の点は立法府と行政府の厳格な分離をとり、大統領の任期が定められる一方、議会解散権がなく、大統領の所属政党と議会多数派とが異なる場合も出現しやすいアメリカ型の大統領制と異なる点である。

議院内閣制の利点を実際に活かすことができるか否かは政治上の諸条件にかかっているとされ、議会や政党に頽落を生じる場合にはアメリカ型の大統領制よりも大きな構造的な問題を抱えることになるとされる[25]。

議院内閣制の問題点としては、政権与党が議会の圧倒的多数を占めると独裁化に近い状態になり、他方で政権与党が小政党の連立である場合には政権基盤は著しく不安定な状態になる点が挙げられる[26]。』

河野氏支持の石破氏を直撃 87票差“完敗”どう分析?

河野氏支持の石破氏を直撃 87票差“完敗”どう分析?「党員票と議員票のずれは自民党の根本的な問題」
https://news.yahoo.co.jp/articles/7d31d11b99189013b43b0cae10b586e92f5f3748

 ※ この人、本当に「直接民主制と間接民主制」とか、「議院内閣制」とか、分かっているのか?

 ※ 自民党の「総裁選出方法」に問題があると考えているのなら、堂々と「自説を主張して」、他の「自民党員及び自民党国会議員」を説得して、働きかけて「制度変更」に動けばいい…。

 ※ そういう「試み」「改革に向かう行動」を全くしないで、「現行制度」に文句を垂れていても、始まらんだろうよ…。

 ※ 自民党の中の人なんだから…。

 ※ 「改革・変革」がなされない限り、「現行の制度」に従って、「総裁選は、戦われる。」…。

 ※ そういうものが、「世の中のルール」というものだろう…。

『FNNプライムオンライン

自民党総裁選は決選投票が行われた結果、岸田文雄前政調会長が、河野太郎規制改革相を87票差で破り、新しい総裁に選出された。

総裁選の投票を終えたばかりの石破元幹事長が、会場から生出演。

加藤綾子キャスター「まず、岸田さんが新総裁に選出されましたが、今、どのようなお気持ちでしょうか?」

石破元幹事長「それはもう、こう決まったんだから、新総裁のもと、自民党が一致して国のために働ける。選挙はその結果なのでね。そこへ向けて努力をしていくということです。あれこれ言っても始まりません。みんなで一緒にやります」

フジテレビ・松山俊行解説委員「石破さんは、出馬するかどうかかなり迷われていた時期があって、最終的には、政策できちんと実現できるという方向性で、河野さん支持ということを表明されたわけですが、実際にそれで戦われてみて、結果として、きょう1回目の投票で、予想よりも、おそらく議員票も党員票も少なかったんじゃないかなと思いますが、その数字を見た時に、どういう印象を持たれましたか?」

石破元幹事長「党員票は、彼も一生懸命頑張ったんだけども、よくこれだけ出たなと思います。ほとんどの地域で1位ですからね。これはありがたかったと思います。これと議員票が、なんでこんなに離れたんだろうかということが、自民党の根本の問題かもしれません。このずれを直していかないと、いつまでたっても自民党は国民の意思と違うよということを引きずっちゃうので、ここは、なんとかしなければならないですね

松山解説委員「このあと総選挙があるわけですけれども、今回の党員票が、1回目の投票では河野さんが1位だったにもかかわらず、決選投票で負けているということが、自民党にとって非常に大きいダメージとして出てくるのかどうか。このあたりはどう見ていますか?」

石破元幹事長「それはもう、あとひと月くらいしかないわけですよね。小細工を弄(ろう)したってどうなるわけでもない。判断するのはやはり、主権者である国民ですよ。この人たち、は自分たちの意思と違うことをやっているな、違う行動をするなということになれば、支持が得られない。そういうことです。このひと月の間に、どれだけそれを埋めていくか。それぞれの地域の党員の意向、それは、その地域の人々の意向と言ってもいいでしょうね。それと違う判断をした人たちが、なぜこういう判断をしたのか。なぜこれが国のためなのかということをきちんと説明して、ご理解をいただくということが大事だと思っています」

松山解説委員「岸田さんは、ノーサイド、全員野球ということを最後、強調していましたが、そういった意味では、河野陣営からも、きちんと幹部に起用してという、総体として自民党はあたっていくべきだと、そういうお考えですか?」

石破元幹事長「それは、人事権者は総裁だから、われわれがあれこれ言うべきじゃないが、派閥にこだわらずに、有能な人は登用していく。それが国のための自民党というものです」』

日本製鉄、米国本社機能をヒューストンに移転

日本製鉄、米国本社機能をヒューストンに移転
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA306E20Q1A930C2000000/

『【ヒューストン=花房良祐】日本製鉄は米国の本社機能をニューヨークからヒューストンに11月1日付で移転する。これまで米国では両市とシカゴの3カ所に事業拠点があったが、ヒューストンに統合することで経済成長する米国南部を取り込む。

米国内の3カ所の従業員は現在約30人でヒューストンへの集約後は若干減少する見通し。日鉄は欧州アルセロール・ミタルと折半の合弁事業で米南部アラバマ州に工場を有し、米中部や南部の自動車工場向けに鋼板を生産する。米南部に顧客が多く、ヒューストンに事業所を一本化することで、営業を強化するほか同工場を支援する。

ヒューストンのあるテキサス州には、北部ダラスにトヨタ自動車が北米拠点をカリフォルニアから移転したほか、三菱重工業もニューヨークから移転した。個人所得税や法人所得税がゼロといった他州に比べた割安な税負担が魅力で、賃料など生活コストも西海岸や東海岸の大都市より安いため、米国のハイテク企業も移転先として注目している。

ヒューストンから空路4時間以内で東海岸や西海岸、メキシコの主要都市に出張できることも強み。』

トヨタ、米アラバマ州の新工場が稼働

トヨタ、米アラバマ州の新工場が稼働 新型SUVを生産
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN307PA0Q1A930C2000000/

『【ニューヨーク=中山修志】トヨタ自動車は30日、マツダと共同で建設した米アラバマ州の新工場が稼働したと発表した。トランプ前大統領の要請に応じるかたちで2017年に投資を決定した工場で、米国では5番目の完成車工場となる。米国の自動車市場の伸びは鈍化しており、新工場をグローバルの生産効率化に生かせるかがカギになる。

トヨタは同工場で新型の多目的スポーツ車(SUV)「カローラクロス」を生産する。マツダは2022年1月から未発表の新型SUVの生産を始める計画。生産能力は両社とも15万台の計30万台で、トヨタの米国の生産能力は約149万台に増える。

トヨタにとっては19年末に稼働したメキシコ第2工場以来の新工場となる。23億1100万ドル(約2500億円)をマツダと共同で投資し、計4000人を雇用する。

同工場の建設は、米国の自動車産業の復活をめざすトランプ前大統領の意向に沿うかたちで決まった。メキシコからの輸入車の増加に神経をとがらせていたトランプ氏がメキシコで完成社工場の建設を進めていたトヨタを名指しで批判し、「高い関税を払え」と迫った。トヨタとマツダが米国工場の建設計画を発表すると、トランプ氏は「グレートなニュースだ」と態度を一変した。

だが、トランプ氏は20年の大統領選挙で敗れ、アラバマ工場の完成を待たずに降板した。後任のバイデン大統領は電気自動車(EV)の普及促進を環境政策の柱に据え、米自動車メーカーはこぞってEVシフトを進めている。

トヨタは現時点で米国での具体的なEVの生産計画を示していない。アラバマでつくるカローラクロスもガソリン車だ。北米市場で人気が高いSUVで当面の需要に対応しつつ、いかに電動車両の生産につなげていくかが重要になる。』

北朝鮮ミサイルの緊急会合、安保理が延期 中ロ反対で

北朝鮮ミサイルの緊急会合、安保理が延期 中ロ反対で
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN30EUK0Q1A930C2000000/

『【ニューヨーク=吉田圭織】国連の安全保障理事会は9月30日、北朝鮮によるミサイル発射を受けて予定していた非公開の緊急会合を延期した。安保理外交筋によると、中国とロシアが会合の開催に反対したため、翌日の10月1日に開く見通しとなった。

会合は米国、英国とフランスの3カ国の安保理常任理事国が要請した。北朝鮮が28日、音速の5倍以上の速さで飛び、レーダー追跡と迎撃が極めて難しいとされる「極超音速ミサイル」の発射実験を初めて実施した。発射には安保理決議の違反となる弾道ミサイル技術を用いたとされ、対応を議論する。

会合後に安保理全体としての声明を出すかは明確でない。安保理は北朝鮮が15日に短距離弾道ミサイル2発を発射した後にも緊急会合を開いたが、安保理としての声明は見送った。』

みずほ銀行、外為取引387件遅れ 今年8度目システム障害

みずほ銀行、外為取引387件遅れ 今年8度目システム障害
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB307Y20Q1A930C2000000/

『みずほ銀行で30日午後、システムの不具合により387件の外国為替取引に遅れが出た。主に法人顧客の送金が滞ったが大半は同日付で処理ができるめどがついたというが一部は翌日に持ち越す可能性がある。詳細な原因は特定できていない。みずほで顧客に影響が出るシステム障害が明らかになるのは今年に入って8件目。9月22日に金融庁がみずほのシステムを実質管理する業務改善命令を出したばかりだった。

みずほから他行宛ての送金で387件の遅れが生じたが、うち300件超は当日付で処理できる見通し。残り約80件は相手方の銀行との調整を続ける。10月1日には通常通り、取引を受け付けられると説明している。30日は企業の決済が集中する上半期の末日にあたる。送金の遅れは企業間取引の一部に影響を及ぼす可能性がある。

不具合が起きたのはみずほの外為取引システムと、銀行間の送金を担うネットワークをつなぐ部分で、決済が集中し負荷が大きくなったのが一因とみられる。

みずほ銀では今年2月以降、全国のATMの7割強が一時使えなくなるなどシステム障害が相次いでいる。3月12日の障害でも外貨建て送金の約300件が遅延した。ただ、当時は勘定系システムと外為決済システムをつなぐ部分のハード機器が故障したためで、今回とは原因も障害箇所も異なる。

みずほでは2002年、11年にも大規模なシステム障害を起こしてきた。19年に旧行のシステムを刷新し新勘定系システム「MINORI(みのり)」を全面稼働させたが、今年に入りみのりに関連するシステム障害が相次いでいる。

8度の障害はいずれも原因が異なる。みずほ銀の親会社のみずほフィナンシャルグループ(FG)の坂井辰史社長は8月20日の障害後に記者会見し「再発防止に取り組んでいるなかで、極めて重く受け止めている」と述べていた。

その後も続いた障害を重くみた金融庁は9月22日にみずほ銀と親会社のみずほFGに業務改善命令を出した。処分を受けたみずほは同日「システムの安定稼働に全力で取り組む」との決意をあらわにしたが、わずか1週間で新たな障害が起きた。金融庁は障害の再発を防ぐため、みずほのシステム改修や保守点検に関する計画を提出するよう求めていたが、改善計画の提出前に再び障害が起きた。

金融庁幹部は「処分から1週間ほどで再発し、厳しく受け止めている。まず復旧を最優先してほしい」としている。

【関連記事】
・みずほシステム、金融庁が「強行介入」 基幹系改修も
・みずほ銀行のシステム、金融庁が管理へ 異例の行政処分
・金融庁、みずほに業務改善命令 システムを実質管理
・みずほ銀行へ異例の処分 なぜ金融庁がシステム管理?

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慎泰俊
五常・アンド・カンパニー株式会社 代表取締役

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ひとこと解説 金融機関におけるシステムは経営そのものです。オペレーションを明確に定義し例外なく徹底できるか、将来に向けてどのような打ち手を考えているのか(戦略)、組織内が縦割りにならず部門間の協力体制がとれているか、経営陣が技術について正しい意思決定をできる程度の知見を有しているか、などなど。どれか一つが欠けていても、システム刷新は難航します。

みずほほどの巨大システムとなると極めて難易度が高いのは想像に難くありませんが、社会へのインパクトに鑑み早期に収束することを願っています。

2021年10月1日 10:21いいね
4
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上杉素直
本社コメンテーター・論説委員

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ひとこと解説 ちょっと気になるのは、世間もみずほ自身もなんだかトラブル慣れしてきてしまったように見えることです。

「またか!」という声よりもむしろ、「やっぱり」という感想を漏らす人が目立つような気がします。障害、復旧、検査の繰り返しで、みずほのシステム部門の現場はすっかり疲弊してしまっているとの指摘もあります。現場で生じている悪循環を断つのが、システムを安定運用する最初の一歩でしょう。

2021年10月1日 7:36いいね
23 』

岸田新体制固まる 甘利幹事長、高市政調会長

岸田新体制固まる 甘利幹事長、高市政調会長
麻生氏は副総裁 官房長官・松野氏
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA301R70Q1A930C2000000/

『自民党の岸田文雄新総裁は30日、党役員人事で幹事長に甘利明税制調査会長の起用を内定した。総務会長に衆院当選3回の福田達夫氏を抜てきする。高市早苗氏は政調会長に、河野太郎氏は広報本部長にそれぞれ登用する。衆院選に向けて総裁選で広く支持を集めた他の候補者も取り込んで体制を刷新する。

10月1日に臨時総務会を開いて新たな党執行部を正式に決める。総務会後に初の役員会に臨み、自民党四役が記者会見する。岸田氏は4日に臨時国会での首相指名選挙を経て新内閣を発足させる。

政府側の顔となる官房長官には細田派の松野博一氏を充てる。同じ細田派から萩生田光一文部科学相を起用する案が浮上していたが同派内で衆院当選5回の萩生田氏はまだ早いとの慎重論が出た。茂木敏充外相と岸信夫防衛相は再任が取り沙汰されている。

党副総裁には安倍政権時から9年近く副総理・財務相を務めてきた麻生太郎氏が就く。選挙対策委員長に遠藤利明氏、国会対策委員長に高木毅氏、組織運動本部長に小渕優子氏をそれぞれ充てる。

幹事長となる甘利氏は総裁選でいち早く岸田氏支持を表明し岸田氏の総裁選出に貢献した。当選12回のベテランを党務の要に置き党内基盤の強化を狙う。次期衆院選や来年夏の参院選に向けた選挙対策も指揮する。幹事長の交代は2016年8月以来5年ぶり。

新体制は衆院選を意識した内容となった。若手の福田氏の抜てきは目玉の一つだ。福田氏は衆院当選3回以下の議員からなる「党風一新の会」の代表世話人として総裁選での論戦活性化に貢献した。岸田氏は当選回数の少ない中堅・若手や女性議員を積極的に登用する方針を示していた。

総裁選で争った候補者も処遇する。高市氏は総裁選でSNS(交流サイト)で多くの支持を集め、1回目の投票でも岸田氏に次ぐ2位の国会議員票を得た。河野氏を広報本部長に充てる人事には根強い人気を生かし衆院選へ広報戦略の先頭に立たせる狙いがある。

岸田派からの党四役の起用は見送った。岸田氏は総裁選で細田派や第2派閥の麻生派、第3派閥の竹下派を中心に幅広い支持を得た。党内運営の安定を重視し他派閥に配慮した。9月29日の記者会見では「老・壮・青のバランスが大事だ」とも語っていた。

岸田氏は10月4日召集の臨時国会で第100代首相に指名される。同日中に組閣に着手し、皇居での首相親任式と閣僚認証式を経て新内閣を立ち上げる。

衆院議員の任期満了を21日に控える。岸田氏は所信表明演説と各党の代表質問を実施した後、10月中旬にも衆院を解散する公算が大きい。衆院選の投開票は11月前半になる見込みだ。衆院選を直後に控えた異例の新政権発足となる。

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室橋祐貴
日本若者協議会 代表理事
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ひとこと解説

この中で最注目なのは、やはり総務会長に福田達夫氏を抜擢したことです。

一般的にはあまりその重要性が知られていないかもしれませんが、総務会長は党の最高決定機関のトップであり、それを3期生が就任するのは異例中の異例です。

今回70名規模の「党風一新の会」をまとめ上げた力量を買ってのことだと思いますが、これによって次世代の代表格になったと言えます(少し前までは小泉進次郎氏の右腕と言われていましたが)。

かつて祖父にあたる福田赳夫氏が反主流派の「党風刷新連盟」を作り、総理辞職後には「清和会」と改名しましたが(福田赳夫氏が初代会長)、まさに同じようなストーリーを想起させます。

2021年10月1日 10:50
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新井紀子
国立情報学研究所 教授
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分析・考察

SNS上やメディアでは「新鮮味が欠ける」「何も変わらない」との意見が多いようだ。

岸田氏の立候補会見を改めて見てみた。

彼の主たる主張は「日本型修正資本主義の構築」とそもそもの自民党の強みであった「包容力のある民主主義」とのことだ。

対立軸となる象徴は何か。実は、小泉純一郎元首相の「郵政民営化」や「自民党をぶっ壊す」ではないか。

今振り返って、郵政民営化のメリットが見えるだろうか。民営化に反対する議員に「刺客候補」を立てる劇場型手法は良かったのか。

小泉劇場の傷は(トランプ劇場同様に)深い。分厚い中間層を回復させるには長い道のりになるだろう。一喜一憂せず行方を見守るリテラシーが国民には問われる。

2021年10月1日 9:19 』