「メルケル後」 ドイツの空白

「メルケル後」 ドイツの空白 ライオネル・バーバー氏
英フィナンシャル・タイムズ前編集長
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD2252N0S1A920C2000000/

『ドイツのメルケル首相は16年間にわたって国際舞台で定位置を占め、危機時に安定感をもたらす存在だった。26日投票のドイツ連邦議会選(総選挙)後に退任すれば、ドイツ及び欧州で容易に埋めがたい空白が生まれる。

メルケル氏の持ち味は冷静な分析やマキャベリズム(権謀術数主義)的な冷徹さに加え、「安全第一」という国民感情を鋭く捉える能力にある。新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)やユーロ圏債務危機、ロシアのウクライナ侵攻といった幾度の危機に際し、(問題の先送りともいえる)戦略的な忍耐を常とう手段としてきた。

英フィナンシャル・タイムズ前編集長のライオネル・バーバー氏

ところが今回の選挙戦では、メルケル氏の素質が、所属する中道右派のキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)の支持率上昇に寄与する場面に乏しかった。メルケル氏は(盤石な)後継者選びに失敗しただけにとどまらず、(現在は大連立政権の与党である)中道左派のドイツ社会民主党(SPD、社民党)のリードを許したといえる。

メルケル政権は、シュレーダー前首相が実施した労働市場と社会保障制度の改革で恩恵を受けた。欧州連合(EU)の拡大に伴い、ドイツ企業がポーランドやハンガリー、チェコ、スロバキアに工場を移転して生産コストを下げる機会にも恵まれた。

ユーロ相場も強力な追い風となり、スイスフランに比べて低く抑えられた為替レートを享受できた。一方、メルケル氏は国内世論をくみ取ってユーロ圏の財政統合を拒んだ末、ギリシャなど南欧を苦境に立たせた。2020年にコロナ禍が始まってようやく、ユーロ圏共同での債券発行による財源の調達に同意した。

メルケル氏は中道路線を心掛けてきた。しかし結果として長期的な問題が積み上がり、7月に大規模な洪水災害を引き起こした気候変動問題に直面した。デジタル化に向けたインフラ整備などへの投資の遅れにも悩まされる。

人口の縮小という課題については、メルケル氏は以前から認識していた。15年に100万人超となる難民を受け入れる決断を下した背景には、人口問題という要因もあったのかもしれない。寛容な難民政策は当初こそ倫理的な対応として歓迎されたものの、やがて無責任だとの声が上がり、支持率の悪化を招いた。

11年の東京電力福島第1原子力発電所の事故を受け、脱原発へとかじを切ったことも、賛否を呼んだ。ドイツは、火力発電やロシア産などのエネルギーへの依存を強めるかたちになった。メルケル氏が、独ロのパイプライン計画の撤回を求めた米国に屈しなかったことは、ドイツの弱い立場を浮き彫りにもした。

選挙戦では、こうした問題が主要な争点になるのが本筋だろうが、メディアは(首相候補の)人物像に焦点を当てたようにみえた。(環境政党の)緑の党のベーアボック共同党首は経歴の訂正などの問題が浮上し、CDU・CSUのラシェット党首は、洪水被害視察時の不用意な笑い顔が報じられた。

次期首相の最有力候補に躍り出たのは、飾り気のないショルツ財務相だ。社民党の首相候補であるショルツ氏は、冷静沈着な雰囲気を醸す。メディアから感情の乏しさを指摘されると「首相の座を目指しているのであって、サーカスの団長になりたいわけではない」と応じた。

仮に社民党が第1党になっても、ショルツ氏が政権を発足させるには連立を組まなければならない。簡単ではないかもしれないが、社民党と緑の党、(リベラルの)自由民主党の連立が考えられる。

自由民主党が連立入りしなければ、旧共産党系の左派党が加わる確率が高まる。(CDU・CSU主導の連立の可能性は高まっているとはいえないため)ラシェット氏を後継者に指名したメルケル氏は、世論にそっぽを向かれた格好となっている。

メルケル氏への歴史的な評価は厳しいものになるかもしれない。メルケル氏がドイツの安定を維持しつつ、低成長にあえぎ米国と中国の板挟みになる欧州の結束を保ってきたのは事実だろう。しかしドイツはなお過去を引きずり、国際的なプレーヤーとしての立場と責任を受け止めようとしないままでいる。

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