〔レバノン〕

レバノン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%90%E3%83%8E%E3%83%B3

※ ここも、国土の4分の3くらいは、「山岳国家」だな…。

※ 平地は、地中海沿岸部分だけだ…。

※ 山脈から発する「河川」の、「河口」に都市が発達したものだろう…。

※ 山地方面の都市は、交易の要衝か…。

※ 周辺国は、こんな感じ…。

※ 気候区分は、こんな感じ…。

※ まあ、「地中海世界」の一部と捉えておけば、いいだろう…。

『レバノン共和国(レバノンきょうわこく、アラビア語: الجمهوريّة اللبنانيّة‎)、通称レバノンは、中東のレバントに位置する共和制国家[2][3][4][5]。首都はベイルート。

北と東ではシリアと、南ではイスラエルと国境を接し、西には地中海を挟んでキプロスがある。レバノンは地中海盆地とアラビア内陸部の交差点に位置することから、豊かな歴史を持ち、宗教的・民族的な多様性を持つ文化的アイデンティティを形成してきた[6]。レバノンの面積はわずか10,452 ㎢ で、アジア大陸で最も小さな主権国家として認められている[2][3]。

レバノンの文明の最も初期の証拠は、記録された歴史によれば7000年以上前にさかのぼる[7]。レバノンはフェニキア人にとって、ほぼ3,000年(紀元前3200年から539年)の間栄えた海洋文化の拠点だった。紀元前64年には、同地域はローマ帝国の支配下に入り、最終的にはキリスト教のその主要な中心地の一つとなった。レバノン山脈では、マロン派として知られている修道院の伝統が生まれた。アラブのイスラム教徒がこの地域を征服しても、マロン人は自分たちの宗教とアイデンティティを維持した。しかし、新しい宗教グループであるドゥルーズ派がレバノン山にも定着し、何世紀にもわたって宗教的な分裂が続いている。十字軍の間に、マロン人はローマ・カトリック教会との接触を再確立し、ローマとの交わりを主張した。これらの結びつきは、この地域の近代化にも影響を与えている。
レバノンは16世紀にオスマン帝国に征服され、その後400年間支配下に置かれた。第一次世界大戦後のオスマン帝国の崩壊後、現在のレバノンを構成する5つの州はフランスの委任統治下に置かれた。フランスは、マロン人とドゥルーズ人が多かったレバノン山総督府の国境を拡大し、より多くのイスラム教徒を含むようにした。1943年に独立したレバノンでは、主要な宗派に特定の政治的権限が割り当てられた独自の宗派主義的な政府形態が確立された。ベチャラ・エル・クーリー大統領、リアド・エル・ソル首相、国防大臣のマジド・アルスラーン2世は、現代レバノンの創始者であり、独立に貢献した国民的英雄である。レバノンは当初、政治的にも経済的にも安定していたが、様々な政治的・宗派的派閥による血なまぐさいレバノン内戦(1975年~1990年)によって崩壊した。この戦争は部分的にシリア(1975年~2005年)とイスラエル(1985年~2000年)による軍事占領につながった。

レバノンは小さな国であるが、その大規模で影響力のあるディアスポラによって、アラブ世界のみならず世界的にもレバノンの文化は知られている[4]。内戦前のレバノンは、観光、農業、商業、銀行業を含む多様な経済を享受していた[8]。また、ベイルートは「中東のパリ」と呼ばれるほど多くの観光客を魅了した[9]。終戦後は、経済復興と国家インフラの再構築に力を注いできた[10]。紛争の政治的・経済的影響からの回復途上にありながらも、人間開発指数と一人当たりのGDPはペルシャ湾の石油国を除くアラブ世界で最も高く、国際色豊かな比較的先進的な国であることに変わりはない。

レバノンは1945年に国連の創設メンバーとなり、アラブ連盟(1945年)、非同盟運動(1961年)、イスラム協力機構(1969年)、フランコフォニー国際機関(1973年)に加盟している。』