参勤交代の最大の弊害は国許を顧みない若殿が育ったこと

参勤交代の最大の弊害は国許を顧みない若殿が育ったこと
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 ※ この話しも、時代小説読んでると、頻出する…。

 ※ 帝国的統治の要諦は、「分断して統治せよ。」だ…。

 ※ 国侍と江戸侍(定腑(じょうふ)の者)の不仲は、幕府にとっては「シメシメ…。」だったろう…。

 ※ 統治していく上で、最も困難なのは、「被統治者の頭の中」を作り変え、操作することだろう…。

 ※ それが、「国もの」と「江戸もの」の二種類に分かれていたら、やり易かっただろう…。

 ※ それとなく、「競争心を煽って」対抗させることも可能だったろうからな…。

 ※ 「幕府瓦解の危機」が迫っても、藩論は四分五裂…。なかなか「一つにまとまること」は、難しかったろう…。

 ※ 逆に、「討幕運動」及び「御一新」後は、強力に「何らかの求心力のシンボル」を必要とし、「錦の御旗(菊のご紋)」が駆り出されたということも、ありそうだ…。

※ 藤田東湖氏、初めてご尊顔を拝する…。徳川斉昭候(慶喜氏の親父)の「懐刀」と言われた人物だ…。

※ こういうお顔のお人だったんだな…。

『浅野内匠頭は「田舎侍」にあらず

長矩と容保二人に限ったことではない。江戸幕藩体制下の藩主たちは、ほぼ例外なく江戸藩邸で生まれ、江戸で成長した。

藩主は参勤交代によって国許と江戸とを往復するが、妻子は江戸に居住することを命じられていたからだ。人質である。世継ぎは江戸で生まれ、江戸で若殿として養育されるのである。

『忠雄義臣録第三』より。吉良に斬りかかる長矩を描いている。なぜこのような暴挙に及んだかについて、長矩は調べに対し「私的に遺恨あり、前後を忘れ、討ち果たそうと及んだ」と述べたという。藩の存亡、藩士・領民の存在は頭からすっぽり抜けていた。

東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

『忠雄義臣録第三』より。吉良に斬りかかる長矩を描いている。なぜこのような暴挙に及んだかについて、長矩は調べに対し「私的に遺恨あり、前後を忘れ、討ち果たそうと及んだ」と述べたという。藩の存亡、藩士・領民の存在は頭からすっぽり抜けていた。

家督を継いで晴れて藩主の座に就くと、父と同じく国と江戸を行き来し、その子どもはまた江戸で誕生し、江戸で育つ。

参勤交代によってできた奇妙なシステムだ。

何しろ若殿は「お国」を知らない。もちろん江戸家老や側近から特徴や事情は「聞かされて」はいたろうが、実際に「見る」ことなく育つ。このあたり、親の代から引き継いだ選挙区は地方にあるが、東京で生まれ育った現代の2世議員も、全く同じだろう。

こうして育った若殿が、長じて藩主となると、どうなるか?

江戸が好きで、田舎を避けるようになるのは想像に難くない。

日本近世史学者の大石学氏(現東京学芸大学名誉教授)に取材する機会を得た際、大石氏は藩主たちのこの特徴を熱心に語った。藩主たちにとっては、「江戸こそが“ホーム”であり、国許が“アウェー”」だと。

また、史書にもそのような記載が散見されることも説明してくれた。

8代将軍・徳川吉宗に仕えた儒学者の荻生徂徠(おぎゅう・そらい)は自著『政談』で、「(大名たちは)いずれも江戸育ちにて、江戸を故郷と思う人なり」と書いている。

江戸幕府の公式史書『徳川実紀』も、江戸後期の実態をこう綴る。

「妻子をも、みな府内(江戸)に置くことゝなりしかば、封地(領国)にあるよりも、参府(参勤で江戸に行くこと)を楽しむ時情となれり」

冒頭に書いた浅野長矩は、吉良上野介(きら・こうずけのすけ)に「田舎侍」と罵倒(ばとう)され松之廊下で刃傷に及んだといわれるが、長矩は鉄砲洲(現在の東京都中央区)の赤穂藩上屋敷で誕生した正真正銘の都会っ子だったのだ。

『築地八町堀日本橋南絵図』。赤枠の部分が鉄砲洲。青く囲ったあたりに赤穂藩上屋敷があった(嘉永〜文久期の絵図なのですでになくなっている)。鉄砲洲のすぐ左下の赤く塗られたエリアが本願寺で、現在の築地・銀座にほど近い。国立国会図書館所蔵

元禄時代に刊行された大名の評判記『土芥寇讎記』(どかいこうしゅうき)は長矩をこう評する。

「政道は幼少より成長したいまに至るも、家老にまかせきり」

政道、つまり国許の藩政に、長矩は興味もなかったことがうかがえる。

藤田東湖が批判した「定府の人」の性質

一方、江戸かぶれの藩主や、江戸藩邸詰めの藩士たちを、国許はどう見ていたのだろう?

『土芥寇讎記』は、肥前平戸藩の藩士たちについてこう記す。

「江戸詰めは江戸生まれの(国許から見れば)新参者が多く、藩主松浦鎮信(まつら・しげのぶ)は器量良しを好むので容姿端麗の者が多いが、彼らは国許へ行くことを嫌がる」

鎮信は平戸藩初代藩主で、天文18(1549)年生まれ、慶長19(1614)年没。戦国期〜江戸初期の大名だ。全国の大名が江戸に参勤するのは関ケ原の戦い(慶長5 / 1600年)で家康が勝利してからだが、そのわずか14年後には、すでに江戸詰めの藩士は国へ帰ることを嫌がっていたというのである。当然、国許も彼らを嫌っていたろう。

時代はぐっと下って幕末、水戸の烈公・徳川斉昭(とくがわ・なりあき)のブレーンだった藤田東湖(ふじた・とうこ)も『常陸帯』(ひたちおび)で、「定府の人(江戸藩邸の藩士)は水戸の人を田舎者と嘲(あざけ)り、水戸の士は定府の人を軽薄者と謗(そし)り政事の妨(さまたげ)となりぬれば」と述べ、江戸詰めと国許藩士の確執が藩政の妨げになっていると批判している。

さらに、江戸詰めの人の性質は「狡黠」(こうかつ)で、「剛毅朴訥」(ごうきぼくとつ / 意志が強く飾り気がない)の気風を失っていると手厳しい。

水戸藩は定府大名だが、他藩にも同様の批判があったろう。

(左)藤田東湖 / 『水藩人物肖像図』(右)松平容保 /『幕末・明治・大正回顧八十年史』国立国会図書館所蔵

江戸と国許に確執が生じたのは、江戸で消費する藩費が莫大な額にのぼっていたことが原因だったと、前回書いた。そのことに悩んでいさめようとした結果、藩主に疎まれた人物もいた。幕末の会津藩家老・西郷頼母(さいごう・たのも)だ。

頼母が仕えた会津藩第9代藩主・松平容保は、時代劇などでは不器用だが幕府への忠義に厚い「義」の君主として描かれる。だが、領国では別の評価があった。

そもそも容保は美濃高須藩主・松平家の出身である。それが父の弟が治めていた会津に養子として入った。こう書くと、美濃から遠く会津の地に赴いた印象を受けるが、前出の大石氏よると、江戸の四谷(現在の東京都新宿区)にあった高須藩邸から、和田倉門内(現在の同千代田区)の会津藩邸に引っ越しただけだったという。

江戸藩邸では、徳川宗家に絶対的臣従を貫くという会津の家訓を徹底して叩き込まれた。嘉永4(1851)年、数え16歳で初めてお国入りし、翌年に藩主の座に就いた。

幕府への忠義とプライドに満ちた若き殿様には、中央政府での功名心もあった。文久2(1862)年には京都守護代まで拝命し幕末の動乱に身を投じ、江戸藩邸に加えて京都でも、湯水のごとく藩費を使った。

領民は年貢に喘いだ。国許の人々に、容保はどう映ったろう?

家老の頼母がいさめても聞く耳は持たなかった。その後、官軍が会津に侵攻してくると、頼母は白河口の戦いなどの敗戦の責任も負って、追放される。

参勤交代は東京一極集中の源流

江戸(容保の場合は京都でも)で暮らし、国許を知らない殿様の誕生。国を留守にする藩主に従い、都会風を吹かす側近。彼らと国許の間には、修復しようのない溝があった。

参勤交代の最大の弊害は、ここにあった。

決して幕府が強要したことばかりではない。妻子を人質として江戸に滞在させたことに諸問題の原因あったのは事実にせよ、江戸で生まれ育った嫡男に国を顧みる教育をできなかったこと、また、江戸藩邸での支出を抑制できなかったことなど、諸藩にも問題はあった。

問題の根底にあるのは、江戸で味わった華美な生活と、その暮らしを維持しようとする虚栄心、見栄ではなかったろうか。

藩は財政状態を好転させるために、江戸藩邸の経費切り詰めと倹約を模索した。だが、実際に首尾よく運んだのは、上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)が藩主の時期の米沢藩など数少ない。

政治の中心も、人もカネもすべて東京に投下される「一極集中」は、江戸時代の参勤交代にその源があったのではないだろうか。

参考資料 / 『近世日本の統治と改革』(吉川弘文館)

シリーズ「参勤交代のウソ・ホント?」は今回が最終回です。ご愛読ありがとうございました。

バナー画像 : 会津藩主の参勤交代行列図。右上に磐梯山、2段目中央に藩主が乗った駕籠がある。東北の“要”を担った譜代大名の行列を忠実に描いた壮麗な作品。江戸時代後期作。会津若松市立会津図書館所蔵

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小林 明KOBAYASHI Akira経歴・執筆一覧を見る

1964年、東京都生まれ。スイングジャーナル社、KKベストセラーズなど出版社での編集者を経て、2011年に独立。現在は編集プロダクション、株式会社ディラナダチ代表として、旅行・歴史関連の雑誌や冊子編集、原稿執筆を担当中。主な担当刊行物に廣済堂ベストムックシリーズ(廣済堂出版)、サライ・ムック『サライの江戸』(小学館)、『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など。

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