〔パキスタン〕

パキスタン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3

※ 地震に見舞われた被害の様子…。

『パキスタン・イスラム共和国(パキスタン・イスラムきょうわこく、ウルドゥー語: اسلامی جمہوریہ پاکِستان‎)、通称パキスタンは、南アジアに位置する国である。世界で5番目に人口の多い国であり、人口は2億2,520万人を超え、世界で2番目にイスラム教徒の多い国でもある。面積は881,913平方キロメートルで、世界で33番目に大きな国である。東にインド、西にアフガニスタン、南西にイラン、北東に中国と国境を接している。北はアフガニスタンのワカン回廊でタジキスタンと狭く隔てられており、オマーンとも海上で国境を接している。

パキスタンには、8,500年前の新石器時代の遺跡であるバローチスタンのメヘルガル遺跡[4]や、旧世界の文明の中でも最も大規模な青銅器時代のインダス文明など、いくつかの古代文化の遺跡がある[5]。現代のパキスタンを構成する地域は、アケメネス朝、アレキサンダー大王の時代、セレウコス朝、マウリヤ朝、クシャン朝、グプタ朝[6]、南部のウマイヤ朝、ヒンドゥー・シャーヒー、ガズナ朝、デリー・スルターン朝、ムガール帝国[7]、ドゥッラーニー帝国、シク帝国、英国東インド会社の支配、そして最近では1858年から1947年までの英領インド帝国など、複数の帝国や王朝の領域であった。

パキスタンは、英領インドのイスラム教徒の祖国を求めるパキスタン運動と、1946年の全インド・ムスリム連盟の選挙での勝利により、1947年に英領インド帝国の分割を経て独立した。この分割では、イスラム教徒の多い地域に独立した州が与えられ、比類のない大規模な移民と犠牲者が出た[8]。当初はイギリス連邦の自治領であったパキスタンは、1956年に正式に憲法を制定し、イスラム共和国として宣言した。1971年には、東パキスタンが9ヶ月間の内戦を経て、新国家バングラデシュとして独立した。その後40年間、パキスタンは文民と軍人、民主主義と権威主義、比較的世俗的な政府とイスラム主義の政府によって統治されてきたが、その内容は複雑である[9]。2008年に文民政権が誕生し、2010年には定期的に選挙が行われる議会制を採用した[10]。

パキスタンはミドルパワーであり、世界第6位の常備軍を有している。核兵器保有国として宣言されており、急速に成長している大規模な中産階級を擁し[11]、新興経済国の中でも成長率の高い国として位置づけられている[12]。独立後のパキスタンの政治的歴史は、経済的・軍事的に大きく成長した時期と、政治的・経済的に不安定な時期の両方を特徴としている。パキスタンは、民族的にも言語的にも多様な国であり、地理的にも野生動物も同様に多様である。しかし、貧困、非識字、汚職、テロなどの問題を抱えている[13]。パキスタンは、国連、上海協力機構、イスラム協力機構、英国連邦、南アジア地域協力連合、イスラム軍事テロ対策連合に加盟しており、米国からは非NATOの主要同盟国に指定されている。』

『歴史

インド・パキスタン分離独立

詳細は「パキスタンの歴史」を参照

19世紀には英領インドとしてインドと同一の政府の下に置かれており、独立運動も本来は同一のものであった。しかし、独立運動の中でイスラム教徒とヒンドゥー教徒との対立が深まり、イスラム教徒地域を「パキスタン」として独立させる構想が浮上した。これを避けるための努力は独立寸前までなされたものの、最終的にはヒンドゥー教徒地域がインド、イスラム教徒地域がパキスタンとして分離独立をすることとなった。しかしこのとき、インド東部がイスラム多数派地域の東ベンガル州(英語版)としてパキスタンに組み込まれ、1955年に東パキスタンとなったものの、遠く離れた両地域を宗教のみで統一しておくことは困難であり、やがて東パキスタンはバングラデシュとして分離独立の道を歩むこととなった。

独立と印パ戦争

1947年8月14日にイギリス領インド帝国から独立し、イギリス国王を元首に頂く自治領(英連邦王国パキスタン (ドミニオン))となり、建国の父ムハンマド・アリー・ジンナーが初代総督に就任する。同年10月21日から翌1948年12月31日にかけてカシミールの帰属をめぐって第一次印パ戦争が起き、1956年には共和制に移行し、イスカンダル・ミールザー(英語版)が初代大統領に就任した。

1958年のクーデターでミールザー大統領が失脚し(en:1958 Pakistani coup d’état)、パキスタン軍の総司令官だったアイユーブ・ハーンの軍事独裁政権が誕生し、以後パキスタンは軍政と民政を交互に繰り返すことになる。1965年には第二次印パ戦争が起き、1970年11月に東パキスタンがボーラ・サイクロンによる被害を受け、被災地への政府対応に対する批判が高まり、第三次印パ戦争(1971年12月3日 – 12月16日)に発展して、東パキスタンがバングラデシュとして分離独立した。

1972年、イギリス連邦を脱退し、パキスタン人民党の初代党首だったズルフィカール・アリー・ブットーは大統領や首相を歴任した。1977年7月5日にムハンマド・ズィヤー・ウル・ハクのクーデターによりブットーは職を追われ、後に処刑された。

アフガニスタン紛争と核開発

1978年4月28日、アフガニスタン共和国で四月革命(英語版)が起こって社会主義体制に移行し、アフガニスタン民主共和国が誕生したことをきっかけとして、ムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)が蜂起し、アフガニスタン紛争が始まった。1979年2月にイラン革命が勃発し、11月にイランアメリカ大使館人質事件が起こると、ソ連のブレジネフはアフガニスタンやソ連国内へイスラム原理主義が飛び火することを恐れ、12月24日にアフガニスタンへ軍事侵攻を開始した。アメリカ中央情報局 (CIA)はパキスタン経由でムジャーヒディーンを支援した為、アフガニスタンへのパキスタンの影響力が大きくなるきっかけを与えた。アメリカがスティンガーミサイルを非公式にムジャーヒディーンへ供与したことは、ソ連の対ゲリラ戦を効果的に苦しめ、後にソ連を撤退に追い込んだ。その一方で、戦後には武器が大量に残され、ムジャーヒディーンからタリバーン政権が誕生し、さらにはアルカーイダが誕生した。

1988年8月17日、ムハンマド・ズィヤー・ウル・ハク大統領が飛行機墜落事故で急死した。同年10月31日には国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッションが活動を開始し、12月2日にはズルフィカール・アリー・ブットーの娘であるベーナズィール・ブットーが、イスラム諸国初の女性首相に選出された。1989年にイギリス連邦に再加盟を果たしたが、1990年8月6日にクーデターでブットー首相が解任された。1993年、ベーナズィール・ブットーが首相に復帰したが、1996年11月5日に汚職や不正蓄財を理由に職を追われた。

1998年5月11日と13日、インドのヴァージペーイー政権がコードネーム『Shakti』を実施した。これに対抗して5月28日と5月30日にナワーズ・シャリーフ首相兼国防大臣がパキスタンによる初の核実験を実施・成功させた。これに対し、日米がインド・パキスタン両国へ経済制裁を課した。 1999年5月、インドとのカシミール領有権をめぐる国境紛争がカルギル紛争(英語版)に発展し、核兵器の実戦使用が懸念された。

ムシャラフ大統領時代

パルヴェーズ・ムシャラフ

1999年10月12日の無血クーデター(英語版)でナワーズ・シャリーフ首相から実権を奪取したパルヴェーズ・ムシャラフは、2001年の民政移管でそのまま大統領に横滑りした。この際イギリス連邦の資格が停止されたが、2004年には復帰した。3月以来、連邦直轄部族地域に浸透したターリバーン勢力との間で紛争が始まり、現在も続いている(ワジリスタン紛争)。2005年10月8日、パキスタン地震で大きな被害が発生したが、中央政府の弱さから救援体制がたてられず二次被害の拡大につながったとされる。

2007年7月、イスラム神学生によるパキスタン・モスク立てこもり事件が発生した。同年10月にはパキスタン大統領選挙(英語版)が行われたが、11月には軍参謀長でもあるムシャラフ大統領が、自身の地位を巡ってパキスタン最高裁判所(英語版)のイフティカル・ムハンマド・チョードリー(英語版)と対立、軍を動員して全土に非常事態宣言と戒厳令を発令するという事実上のクーデターをおこなった(en:Pakistani state of emergency, 2007)。ムシャラフは、11月28日に陸軍参謀総長を辞職して、29日に文民として大統領に就任し、11月に発令した非常事態宣言を12月16日に解除するとテレビを通じて発表した。一方、米国の支援を受けて11月に元首相ベーナズィール・ブットーが帰国したが、12月27日に演説終了後会場にて暗殺された(ベーナズィール・ブットー暗殺事件(英語版))。2007年、またもイギリス連邦の参加資格を停止される。

2008年1月8日に、現憲法下で「自由で透明性のある方法」で総選挙を実施すると公約した。2月18日、パキスタン下院・4州議会議員選挙が行われた(2008年のパキスタン下院総選挙(英語版))。登録有権者は8091万人。下院定数342のうち、女性60、非イスラム教徒10が留保される。342から留保の70を除いた272議席が直接投票で選挙区制の一般選挙区で選出され、70の留保議席が各党に割りあたえられる。与党パキスタン・ムスリム連盟カーイデ・アーザム派(PML-Q)と野党パキスタン人民党(PPP)、パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ・シャリーフ派(PML-N)の3党が中心となって議席が争われた。因みに、上院は100議席で、州議会議員等による間接選挙で選出される。総選挙の結果は、第1党はパキスタン人民党、第2党はムスリム連盟シャリーフ派、次は与党だったムスリム連盟である。他にムッタヒダ国民運動(MQM)、アワーミー国民党(ANP)などがある。3月24日、パキスタン国民議会は、議員投票でユースフ・ラザー・ギーラーニー(就任時55歳)を首相に選出した。ギーラーニーは264票の圧倒的な支持を得た。人民党と連立するムスリム連盟シャリーフ派などの反ムシャラフ派は、下院議員のほぼ三分の二を占めた。5月、イギリス連邦復帰。8月18日、それらの影響を受けムシャラフ大統領はついに辞意を表明した。

ザルダーリー大統領時代

2008年9月6日、パキスタン国民議会上下両院と4州議会の議員投票にてパキスタン大統領選挙(英語版)が行われ、パキスタン人民党総裁のアースィフ・アリー・ザルダーリーが新大統領に選出された。 2010年、パキスタン洪水が発生。 2011年1月2日、ムッタヒダ国民運動 (MQM) が連立から離脱を表明。ギーラーニー連立政権は下院(定数342)で過半数を割り込むことになった。MQM(下院25議席)は声明で「上下院とも野党席に座る決定をした」と表明。政府による石油製品の値上げなどを理由に挙げている。 5月2日、アボッターバードでウサーマ・ビン・ラーディンの殺害が確認された。 11月26日、国際治安支援部隊(ISAF、アフガニスタン駐留)の北大西洋条約機構 (NATO) 軍が北西部の検問所2カ所を越境攻撃し、兵士28人が死亡した。この事態に対してギーラーニー首相は内閣国防委員会を招集し、同委員会はNATO・ISAFの補給経路を遮断したほか、南西部バルチスタン州の米軍無人機攻撃の拠点シャムシ空軍基地から15日以内に立ち退くよう米国に求めた[21][22]。 2012年2月13日、ザルダーリー大統領の汚職事件を巡って、パキスタン最高裁判所(英語版)がギーラーニー首相を法廷侮辱罪で起訴し[23]、6月19日にギーラーニー首相が退任し、後任の首相にラージャ・パルヴェーズ・アシュラフ(英語版)が就任した。

2013年5月13日のパキスタン下院総選挙(英語版)でパキスタン・ムスリム連盟シャリーフ派が勝利し、6月5日にナワーズ・シャリーフが首相に就任。』

(※ 以下、省略)

アフガンの行方、今後数日が命運

アフガンの行方、今後数日が命運 ブレマー氏特別寄稿
米ユーラシア・グループ社長
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB194WI0Z10C21A8000000/

『アフガニスタン駐留米軍のまずい撤収は、バイデン米政権が初めて直面した外交上の大きな危機となった。

イアン・ブレマー氏

撤収の判断そのものが批判されるわけではない。失敗したのは戦略というよりも実行面だ。米軍のアフガン駐留の継続は急速に難しくなっていた。すでに多くの部隊を撤収させていたし、イスラム主義組織タリバンは素早く支配地域を広げていた。そして、米国民はもはやアフガンに関心を示さなくなっていた。

バイデン大統領が前任者から引き継いだのは、壊れた和平プロセスと、仮にトランプ前大統領が約束した米軍撤収を実行しなければ、タリバンとの戦闘が再開するという見通しだった。戦闘が終わらなければ米軍を増派しなければならない。それはバイデン政権の誰もが望んでいなかった。撤収は悪い選択肢のなかでは最良だった。バイデン氏がこうした見方を確信していることは、16日の同氏の演説でもわかる。

カブールを制圧したタリバンの戦闘員ら(19日)=AP

バイデン政権の安全保障と外交政策のチームの専門性と経験に照らし、衝撃的だったのは、実行に関しては、まったくなっていなかったことだ。失敗は4つあった。

情報、調整、計画、意思疎通を誤る

第1の失敗は軍事・情報だ。米情報機関はアフガン政府がタリバンの攻撃を受けても2、3年は持ちこたえられると考えていた。ところが、タリバンの攻勢が強まると、その見通しは2~3日に変わった。

特に驚くべきことは次の2点だ。米国は戦闘を拒否したアフガン政府軍に過去20年間で880億ドル(約9兆6千億円)を支払った。そして、米国はアフガン政府軍を20年間も訓練したのに、政府軍の能力が低く、戦う意思がないという事実を理解していなかった(あるいは理解したくなかった)。

第2の失敗は調整だ。米国は20年間、同盟国とともにアフガンで戦ったが、バイデン政権による部隊の撤収は単独だった。政策の見直し、決定、発表、実行だけではない。事後処理としての市民の退避、難民の受け入れ、人道支援の提供についても同様だった。

同盟国はトランプ前政権による「米国第一」の4年間が終わった後、米国が態度を変えると予想していた。米国は中国に関与する機会も逃した。米国も中国も、アフガンが「失敗国家」となり、再び国際テロの輸出拠点になる事態は望まない。米国と中国が真の意味で合意できる数少ない分野で、創造性に富む外交を実行する余地はあったが、その好機をむざむざ失ってしまった。

カブールの空港で、米軍輸送機のそばで走るアフガン市民ら(16日)=AP

第3の失敗はプランニング(計画・設計)だ。情報や調整で失敗したとしても、バイデン政権が別のシナリオを効果的に用意できていれば、必ずしも大きな被害につながったとは限らない。ところが、実際は、備えができていなかった。

米国は(市民らの)退避を支援するため、米本土から新たな部隊を派遣しなければならなくなった。アフガンの米軍は撤収開始時よりも(一時的に)3500人も多くなってしまった。首都カブールの空港は絶望したアフガン市民であふれ、滑走路を進む米軍の輸送機と一緒に多数のアフガン人が走った。離陸後、機体にしがみついていた3人が振り落とされ、亡くなった。

米軍を支えた何千人ものアフガン人の安全を保証する計画はなく、多くの人々は置き去りにされた。

第4の失敗はコミュニケーション(意思疎通)だ。バイデン氏は7月、米国民に向け、タリバンが「アフガン全体を支配する可能性は極めて低い」と保証した。「(在アフガン米大使館の)屋根の上からヘリコプターで脱出するような状況ではまったくない」とも話した。

ブリンケン米国務長官も「米国は残り、大使館は動かず、計画も続く。仮に安全が大きく損なわれるような事態になっても、それは金曜から月曜の間に起こることではない」と語った。こうした予言は、言っているそばから外れたため、かわりにバイデン政権はアフガンで「成功を収めた」と主張するようになった。

痛みを伴うが必要な決定だったはずのアフガン駐留米軍の撤収作業は大きく失敗した。バイデン氏の政敵は、同氏がこの敗戦の責任をとるべきだと突き上げた。20年の月日と2兆ドルの資金が浪費された。その責任の一端をバイデン氏は追及されている。

アフガニスタン駐留米軍の撤収についてホワイトハウスで演説するバイデン米大統領(4月)=AP

米国のテロリスト監視能力は低下

これからの数日間が決定的に重要な意味を持つ。アフガン政権は崩壊し、大統領だったガニ氏は出国した。しかし、多くの米国人やそのほかの国の人々がカブールにとどまり、多数の米兵が救出に向かっている。タリバンは退避しようとする米国人の誘拐や殺害を試みるだろうか。混乱の中で事故が起き、米国の記者、援助団体職員、外交官、兵士が死亡するだろうか。

ホワイトハウスは1979年の(イラン革命に伴う)テヘランの米大使館占拠、それに続く80年のイランからの人質救出作戦の失敗を連想させる最悪のケースを想定したいくつかのシナリオを検討している。このリストに2021年のカブールでの出来事が加わるかどうか、近いうちにわかるだろう。

仮にバイデン政権が事態の一段の悪化を防いだとしても、その後の見通しは極めて暗い。タリバンは米同時テロからちょうど20年となる9月11日、カブールの米大使館を含む市内各地にタリバンの旗を立て、プロパガンダ(政治的な宣伝)に励むだろう。

米国が残した数十億ドルもする兵器がカブール市内のパレードに参加するはずだ。タリバンは残虐な支配を確立するとみられる。なかでも犠牲になるのは年齢にかかわらず、女性だ。米メディアはそんな事態を見過ごさない。米議会は公聴会を開き、バイデン政権の高官を厳しく調べることになる。

アフガンは再び国際テロの温床になるとみられる。タリバンが率先して過激派を迎え入れるだけではない。さらにあり得るのは、タリバンがアフガンの領土をコントロールできず、過激派の侵入を許すことだ。1980年代のアフガン、90年代のボスニア、2000年代のイラク、10年代のシリアでみられたように、紛争地は世界から(イスラム過激派の)ジハーディストをひきつける。

過激派組織「イスラム国」(IS)によるテロが欧州で続発したことで、ISには各国から新たな参加者が相次いだ。こうした人々はシリアやイラクに渡り、それから(テロを起こしかねない過激派として)出身国に戻った。

米国がアフガンにいるテロリストのグループを監視し、攻撃する能力は今後、限定される。現地での情報収集能力が欠如し、この地域での軍事力も限られるからだ。アフガンを巡る「何かはわからないけれど、何かがあることはわかっている」という事柄はこれから、飛躍的に増えていく。それだけでも米国にとっては悪いニュースだ。

Ian Bremmer 世界の政治リスク分析に定評。著書に「スーパーパワー――Gゼロ時代のアメリカの選択」など。

この記事の英文をNikkei Asiaで読む 』

学習塾は敵、ゲームは麻薬

学習塾は敵、ゲームは麻薬 習近平式「大衆動員」の深層
編集委員 中沢克二
https://www.nikkei.com/article/DGXZQODK093Z00Z00C21A8000000/

『急成長した中国の教育産業、ゲーム業界に衝撃が走り続けている。「暴利をむさぼる学習塾は敵である。資本家と体制内の欲張りな走資派の結託を許すな」「オンラインゲームという精神的アヘンが数千億元規模の産業に成長してしまった」。1940年代に共産党内で吹き荒れた反対派粛清の整風運動、毛沢東による大衆動員が特徴だった文化大革命(文革、66~76年)を思わせる極めて乱暴な言論が、インターネット上ばかりか、公的メディアにまで登場したのは異常事態である。

教育産業が大混乱に陥った原因は、7月下旬、義務教育段階の校外補習を担う学習塾に突然、突き付けられた「非営利組織化せよ」という共産党中央からの命令だった。

教育界に詳しい関係者は現状をこう説明する。「学習塾など教育負担が重すぎる、学校から家に持ち帰る宿題が多すぎる、といった父母らの大きな不満に配慮する形をとっているが、実態は民間教育への政治的な管理・統制の強化だ。見た目と違って賛否は拮抗している」

大手企業の新東方教育科技が運営する学習塾

「1年で結果を」、22年党大会の前哨戦開始

教育費高騰という問題は、住宅価格の暴騰と並び、庶民の関心が極めて高い。特に北京や上海では、校外で補習をする学習塾を含め高等教育修了までにかかる費用が1人当たり日本円で数千万円といわれる。もし国家主席の習近平(シー・ジンピン)が本当に解決できれば、一般大衆から絶大な支持を得られる。

先に習近平政権が打ち出した夫婦に3人目の出産を認める方針の評判はすこぶる悪かった。理由は教育費、住宅費の高騰など出産意欲をそぐ中国の社会環境の改善が先決だ、というものだ。今回の措置が少子化対策に資するという説明はわかりやすい。合わせて宿題に関しても小学1、2年生は禁止、小学3~6年生は平均時間60分以内、中学校は同90分以内と、異様に細かい方針が示された。

大きな話題になった電子商取引最大手のアリババ集団、配車アプリ最大手の滴滴出行(ディディ)への圧力は、個人情報を抱える民間IT(情報技術)企業の無秩序な資本の拡張を防ぐという名目だった。だが、理由が抽象的すぎて、一般人から理解を得るのはなかなか難しかった。

 中国・北京で、大型画面に映し出された習近平国家主席(7月1日)=ロイター

とはいえ、一連の政策の大きな目的は共通している。民間主導で急成長したいかなる業種に対しても、共産党による厳格なコントロールを可能にすることである。これらは、いずれも習近平が直轄する北京・中南海の仕事を差配する共産党中央弁公庁の主導で文書が出されている。まず今後1年という期限付きで一定の結果を出せ、と命じたのも同じだ。

たった1年で目に見えるように教育費負担を軽くせよ、という命令の遂行はかなり難しい。そこで出てきたのが、学習塾の非営利組織化という劇薬だ。外資の教育参入も封じる予想外の措置は、関連企業株の暴落につながった。まさに典型的な「チャイナ・リスク」である。

余波はなお続いている。北京市教育委員会は10日までに、義務教育学校に対して国外の教材の使用を禁止する通達を出した。教材を通じて外国の価値観が流入することまで極端に恐れる排外主義は、これまで進んできた国際化の否定であり、文革時代に逆戻りしたような感覚に襲われる。

習近平には、急がなければいけない理由があった。2022年秋には、習体制の今後を決める第20回共産党大会が控えている。最高指導者としての続投の成否と、実際にどんなポストに就くのかが焦点になる。

長老らとの意見交換の場になってきた河北省・北戴河の海岸には、一般人の立ち入りを禁じる立て札がある幹部専用ビーチが多い(2014年8月)

前哨戦は既に始まっている。まず、河北省の海辺の保養地で現役指導部メンバーと長老らが重要事項について擦り合わせる「北戴河会議」の開催が取り沙汰されている。7月30日の党政治局会議を最後に最高指導部メンバーの動静は消え、同じ日に河北省トップが、北戴河の高級別荘地にある道路検問所などを視察したと伝えられたからだ。

党内からの支持の補完

権力基盤を着々と固めてきた習近平だが、共産党内からの支持はなお盤石とまではいえない。習と同じ境遇の革命幹部の子女である「紅二代」の一部には、党規約で禁じている個人崇拝の色を強める手法に不満が募っている。

最近のいわゆる「戦狼(せんろう)外交」を背景にした対米関係の急速な悪化で、中国共産党員とその家族が渡米するための査証(ビザ)が出ないことも大問題になっている。外務次官の謝鋒が7月末、天津で米国務次官のシャーマンと会談した際、党員と家族のビザ制限問題の無条件の解決を真っ先に要請した経緯からも、党内で受けている圧力の強さが透けてみえる。

習としては党内からの支持を補うために、一般大衆の力がほしい。共産党員はかなり増えたといっても9500万人強にすぎない。その他13億人にのぼる一般大衆からの支持を思うように演出できれば、権力固めがさらに容易になる。新しい形の大衆動員が成功するなら、文革の反省に立った鄧小平時代以来の集団指導制から摩擦なく脱する契機にもなりうる。
習は、汚職を撲滅する苛烈な「反腐敗」運動で大衆の支持を得た成功体験を持っている。これが共産党の別格の指導者を指す「核心」の地位獲得に道を開き、国家主席の任期制限を撤廃する18年の憲法改正にもつながった。

今回も大衆からの支持は極めて重要である。新型コロナウイルス禍を巡っては、初動に失敗したとはいえ、その後の早期抑え込みで経済を回復させた実績がある。しかし、中国を含めて感染が完全終息する見通しは立たず、1年後の党大会の際、どんな状況になっているのか予想しがたい。そうであれば習としては、一つでも政治的な実績を積み重ねる必要がある。

大衆動員による難局打開――。その戦略は国営通信社である新華社系の経済紙、経済参考報がオンラインゲームを「精神的アヘン」と強烈に批判した記事にも透けてみえる。中毒性の高さでやり玉に挙がったのが「王者栄耀」。ネット大手、騰訊控股(テンセント)が手がける大ヒットゲームだ。

管理強化、テンセントとの蜜月の終わり

そもそも習近平とテンセントの縁は深い。共産党トップの総書記に就いた直後、習は初の地方視察の地として広東省深圳を選び、12年12月7日にテンセントを視察した。深圳は鄧小平による有名な「南巡講話」のルートにあり、「改革・開放」政策と鄧小平路線を堅持するメッセージと市場は受け止めた。

習近平氏とテンセントの縁は深い(同社の対話アプリ「ウィーチャット」のロゴ)=ロイター

しかし、この時から既に火種はあった。地元紙などによると、習は接続中のインターネットサービス利用者を星雲のように示す全国地図や、新しい対話アプリ「微信」(ウィーチャット)に特に関心を示し、テンセントの創業者である馬化騰に「ネットの社会管理を我々はどうすべきか」と問いかけた。

さらに同社が扱う莫大な情報量を指摘しながら「あなた方は最も客観的で精密な分析ができる。この面で政府への提案は大変、価値がある」と意味深な言葉を残した。その後、一気に進むことになるビッグデータを利用した言論監視、そして今回、さらに明確になった民間IT企業への管理強化への第一歩にみえる。

見逃せないのは、共産党による支配体制の維持に主眼がある一連の管理強化に、そのあり方に批判がある学習塾やオンラインゲームへの圧力を付け加える手法で、大衆の支持を得ようとする試みである。少なくとも、義務教育段階の学習塾すべてを選択の余地なく非営利組織に転換させるのは、習近平時代の社会主義価値観に基づく形を変えたポピュリズムではないだろうか。

共産党や国家にとって教育が重要なのは理解できる。だが、創意工夫、多様性を否定するなら、新しい発想は生まれない。「ただ一方的に破壊し、管理するだけで、新たな成長産業が育つ環境を整えないとしたら、現在の厳しい国際政治、経済環境の中で致命的な打撃になりかねない」。党内からも厳しい声が聞かれる。(敬称略)

中沢克二(なかざわ・かつじ)
1987年日本経済新聞社入社。98年から3年間、北京駐在。首相官邸キャップ、政治部次長、東日本大震災特別取材班総括デスクなど歴任。2012年から中国総局長として北京へ。現在、編集委員兼論説委員。14年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞。』

G7敵に回す戦狼外交と歴史改変

G7敵に回す戦狼外交と歴史改変、習近平氏の意外な目的
編集委員 中沢克二

習政権ウオッチ
2021年5月12日 0:00
https://www.nikkei.com/article/DGXZQODK093HM009052021000000/

『中国への対抗姿勢を鮮明にした主要7カ国(G7)を120年ほど前の歴史を引いて風刺するCG画像が波紋を広げている。自ら攻撃的な「戦狼画家」と称する若い中国の描き手が狙ったのは、清朝末期の1900年の事件を引いて、G7に侵略者の烙印(らくいん)を押すことだった。

当時、清朝の権力を握っていた西太后は蜂起した義和団とともに排外主義に走る。これに対抗し、英、米、仏、ドイツ、ロシア、日本、イタリアなど8カ国連合軍が北京入りし、外国公館の包囲を解いた。清朝は最終的に計11カ国を相手に屈辱的な北京議定書を交わした。

G7を1900年の8カ国連合軍に例えて揶揄(やゆ)した中国のCG画家による画像(中国のミニブログ「微博」から)

中国で流布したCG画像の基になったG7外相会合の記念撮影(4日、ロンドン)=AP
風刺画像は、当時の8カ国連合軍の兵士の軍服姿を、英国で開催したG7外相会合の記念撮影の構図に当てはめ、マスク姿にした。背景のG7の下にある文字は「United Kingdom 2021」から「Invaders United Kingdom 1900(侵略者 英国 1900年)」に書き換えられ、屈辱を忘れない中国の人々のナショナリズムに訴えかけている。

内政目的遂行のための戦狼外交

細部にも刺激的な表現がある。G7外相会合に招待国の一つとして出席したインドの兵士姿を左端に小さく挿入し、しかも点滴を受けながらの立ち姿にした。新型コロナウイルス感染が深刻なインドを皮肉っているのだ。

作者は政治風刺で注目を集める中国の若手CG画家で、年齢は30代前半だという。1980年、90年以降に生まれた「80後」「90後」と呼ばれる世代以降の中国の若者らは、豊かな中国の申し子だ。彼らは78年の「改革・開放」前の長く苦しい時代を知らない。

数千万人が犠牲になったとされる大躍進(1958~61年)や、文化大革命(文革、66~76年)は単なる歴史で実感もない。多感な青少年期に90年代後半から中国で顕著になった愛国教育の影響も受けている。

「中国は強大になったのだから、8カ国連合軍と重なるG7の欧米諸国、日本には力で対抗すればよい。そんな機運が若い世代の間で高まっている」。戦狼CG画家らの親の世代に当たる中国の知識人は心配しきりだ。かつての最高実力者、鄧小平が提起した爪を隠して内に力を蓄える『韜光養晦』(とうこうようかい)という外交・安全保障の基本政策は既に過去のものだ。

松下電器産業テレビ事業部を訪れた鄧小平副総理(中央右)を出迎える松下幸之助氏(1978年)

戦狼画家の親の世代は50~60歳前後だ。幼少期に文革を直接、体験したか、実体験がなくても悲惨さを十分に聞かされて育った世代だ。学校教育を受けたのは米中接近の時代で、89年の天安門事件に至る民主化運動の記憶もある。

この世代は政治や国際情勢をみる際、一定のバランス感覚を持っている。一般的な傾向として建国の英雄、毛沢東に敬意を払いつつも、大躍進や文革を主導して大失敗した独裁者のマイナス面を決して忘れない。半面、毛沢東路線に終止符を打った現実主義者、鄧小平への共感、思い入れが強い。

民間のCG画家による戦狼画像の発信自体は、政治的主張の表現であり問題ない。ただ国や共産党のメディアがこぞって引用し、拡散する場合、位置付けが変わる。今回は国営テレビのネット版や共産党·政府直轄の英字紙の中国語サイト、共産主義青年団中央のサイトなども取り上げた。過去には中国外務省スポークスマンの趙立堅もツイッターでオーストラリアを風刺したこの戦狼画家のCG画像を発信した。

国家主席、習近平(シー・ジンピン)の時代になって目立つ「戦狼外交」は、若い世代が醸し出す雰囲気と呼応し、互いに利用し合う関係だ。これは中国の学術会も同じである。大衆受けする強硬論を吐く人物がメディアで重用される傾向がますます強まっている。

中国外交が「民意」に拉致されている――。この雰囲気にあえて警鐘を鳴らす動きは、共産党の「体制内」にもある。外交官出身で外交学院の党委員会書記まで務めた学者、袁南生は20年秋に発表した論文で「四方を全て敵にするのは外交の失敗だ」と指摘し、その典型として西太后の清朝が義和団とともに排外主義を推し進めた例を挙げた。今回、CG画家がG7攻撃の材料にしたテーマを、全く逆の反省材料にしていたのだ。

文革までの建国以来27年間を高く評価

今の中国でこうした外交のプロによる正論が主流になるのは難しい。なぜなら戦狼外交は純粋な外交上の方針というより、習近平が推し進める内政上の目的遂行の手段という側面が強いからである。当然ながら、袁南生による忠告から8カ月ほどたった今も事態は悪化するばかりだ。米大統領選挙の結果、トランプが退陣してバイデン民主党政権に変わったのに米中対峙は一段と先鋭化した。

北京の音楽会に登場した毛沢東の絵。文革礼賛には中国でも批判が強い(2016年、インターネット上の映像から)

そこに「G7対中国」という構図まで加わった。G7側は台湾、香港、新疆ウイグル自治区やチベット自治区の人権、東・南シナ海など多くの問題を外相共同声明で指摘した。専制主義と民主主義の両陣営が正面から対峙する構図が鮮明になった。形だけみれば中国外交は、米中が急接近する1970年代以前にまで逆戻りするかのような様相を呈している。

一方、現実の中国政治では先に紹介した毛沢東に懐疑的、鄧小平に共感する世代が大いに心配する事態が起きている。

4月下旬、共産党内に衝撃が走った。中央宣伝部副部長兼中央インターネット情報弁公室主任の荘栄文が、49年の新中国建国から文革が終結する76年までについて「偉大な成果を挙げた27年間だった」と高く評価したのだ。

どこが問題なのか。ポイントは多大な犠牲者を出した「災難=人災」である文革期の10年間の悲惨な歴史に対する公式評価だ。荘栄文は文革を単独で批判することなく、それを建国から27年間に取り込む巧みな手法で偉大な歴史の一部にしてしまった。かなりの力業である。

文革への反省に立った改革・開放の推進という従来の考え方を覆しかねない方針は、7月の共産党創立100年に先立ちスタートした党史学習の重要会議の場で示された。習近平の意向と考えて間違いない。習は大躍進や文革の悲惨さを十分、知っている。それでもあえて目をつぶる裏には、単なる文革への評価の域を超えた壮大な政治的な思惑がある。

「韜光養晦」含め鄧小平氏の業績を相対化

それは改革・開放で豊かな中国への道を切り開いた鄧小平の業績の相対化だ。なぜ今、わざわざケチをつける必要があるのか。独断専行を許さない集団指導制、トップ任期の10年までの制限といった従来の共産党のルールを決めたのが鄧小平だからだ。

既に国家主席の任期制限を撤廃する憲法改正はなし遂げたとはいえ、鄧小平時代のルールを壊さなければ、来年の共産党大会でのトップ続投や、さらなる権限強化に障害が残る。本当の意味で習近平時代を切り開くには、まず鄧小平の権威を相対的に落とすのが効果的だ。

今、始まった新中国建国以来の共産党史の見直しは、22年の共産党大会とその先まで見据えた布石である。鄧小平が事実上、君臨した期間は、改革・開放から1997年に鬼籍に入るまでの19年ほどだ。習近平はこれに追い付き、超える大志を抱いている。なし遂げれば毛沢東の権威に一歩、近づける。

2017年10月に北京で開かれた中国共産党大会で演説する習近平総書記=小高顕撮影

中国では新しい指導者は前任者の否定から入る。習が対象にし始めたのは鄧小平だ。鄧に選ばれ、その路線を継承したにすぎない江沢民(ジアン・ズォーミン)や胡錦濤(フー・ジンタオ)ではない。

共産党100年の歴史は単なる過去の記述ではない。今後の政治を動かす重要なツールである。書き換える権限は現在のトップだけが持つ。鄧小平の「韜光養晦」を過去に追いやる戦狼外交、文革を含む27年間への高い評価は底流でつながっている。(敬称略)

中沢克二(なかざわ・かつじ)
1987年日本経済新聞社入社。98年から3年間、北京駐在。首相官邸キャップ、政治部次長、東日本大震災特別取材班総括デスクなど歴任。2012年から中国総局長として北京へ。現在、編集委員兼論説委員。14年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞。』

七夕に説く夫婦愛情物語、透ける「習近平核心」の先

七夕に説く夫婦愛情物語、透ける「習近平核心」の先
編集委員 中沢克二
https://www.nikkei.com/article/DGXZQODK162090W1A810C2000000/

『夫婦が手を取り合って共に歩む――。中国国営中央テレビ(CCTV)がインターネット版で、国家主席の習近平(シー・ジンピン)と、妻で国民的な歌手でもある彭麗媛の愛情物語を中国の古典、詩経から引用した見出しで報じ、次々に中国内で転載された。

記事中に埋め込まれた豊富な過去の写真の中でも、インド訪問の際、仲むつまじく2人乗りブランコに乗る習夫妻の構図などはかなり目立つ。中国のネット空間にこの物語があふれた8月14日は、中国の旧暦7月7日の七夕にあたる。

長文ドキュメンタリーの発信

牽牛と織女の伝説からの連想で習夫妻の愛情物語が流布された同じ七夕の日には、国営通信の新華社がお堅い長文の政治ドキュメンタリー記事を発信した。共産党最高指導部メンバーが表舞台から姿を消してから10日以上もたった後の動きだけに注目度は高かった。

そこでは習近平を「核心」とする党中央が2021~25年の第14次5カ年計画をけん引する方向性が示され、翌朝の人民日報1面も飾った。これに先立ち、11日に党中央などが発表した習近平時代の法治、ガバナンス確立に向けた「法治政府建設実施綱要(21~25年)」と合わせて考えれば、現在の5カ年計画の2年目にあたる22年の共産党大会で核心であるトップが交代するシナリオは考えにくい。

習は最低でも党の別格の指導者を意味する核心の地位を維持しながら、何らかの形で続投するのではないか。そういう雰囲気を醸し出している。七夕の日の硬軟取り混ぜた発信には、それなりの情報量があった。

福建省アモイで結婚した頃の習夫妻(中央テレビのインターネット版から)

ここで問題になるのが長い間、くすぶり続けている習近平に対する個人崇拝的な傾向である。七夕での夫婦の愛情物語に限らず、母の日、父の日といった記念日に寄せて習本人とその母や父、妻との美しい物語を様々な形式で紹介し、国民の模範として描くのは、習近平時代に特徴的な宣伝方法だ。行き過ぎると習の神格化につながり、共産党規約が厳格に禁じる個人崇拝に抵触しかねない。

それは親しみやすさの演出から始まった。14年8月1日の人民解放軍の創立記念日には、中国共産党中央宣伝部直轄のニュースサイトが一般大衆向けに「軍服を着た習近平」と銘打った動画を発信した。

軍人同士の結婚をハートのマークで表現したアニメーション(2014年、党建網から)

主役は、習大大(習おじさん=「大大」は陝西省の方言でよく使われる親しみを込めた「おじさん」の意味)と、妻の彭媽媽(彭麗媛お母さんの意味)だった。そこでは軍人として順調に昇進する習の経歴、全国の軍区や艦隊の視察の様子などを詳しく紹介している。
一つのクライマックスとして軍所属のスター歌手だった彭麗媛との結婚を挿入している。紅いハートマークの中で若き習と彭麗媛が仲良く手をつないでいる絵柄はほほ笑ましい。そして、わざわざ「一目ぼれ」だったという説明まである。この解説は今回の「七夕愛情物語」でも踏襲されている。

5年前には「習近平バッジ」がお蔵入り

ここまでは習の側近らが動けば、すぐに実現できる宣伝手法だ。しかし、簡単にはいかない例もあった。柔らかで曖昧な個人崇拝的傾向を超えて、明確な個人崇拝とみなされる場合だ。典型的なのは16年3月、全国人民代表大会(全人代)に出席したチベット代表団が胸に着けた習近平の写真入りバッジを巡る騒動である。

習近平氏のバッジと歴代指導者のバッジを胸につけたチベット代表(2016年3月)
よく見るとバッジは2つあった。一つは習近平の写真を単独であしらったバッジ。もう一つには毛沢東、鄧小平、江沢民、胡錦濤、習近平という5人の歴代トップの顔がみえる。つまり、チベット代表団の胸には、2つの習の顔があった。

それは、文化大革命(文革、1966~76年)期の毛沢東に対する個人崇拝を連想させるには十分だった。当時、中国の多くの人々が胸に毛沢東バッジを付け、毛沢東語録を手にしていた。熱狂は暴力を生み、多くの人命が失われ、経済も破壊されたのである。

当然、チベット代表らの習近平バッジは内部で大問題になった。開幕から8日後の全人代全体会議に現れたチベット代表らの胸から、習の単独バッジが基本的に消えた。習による「反腐敗」運動の嵐が吹き荒れていた16年時点でも「いかなる形式の個人崇拝もこれを禁止する」という党内ルールは厳格に守られていた。

とはいえ、これは習の挫折を意味していなかった。その後も側近らが習を核心に押し上げる運動を裏で繰り広げ、16年10月の党中央委員会第6回全体会議(6中全会)でついにそれが実現する。ちょうど5年前の出来事だ。党大会を翌年に控えた政治闘争の時期という状況は現在とまったく同じである。

社会主義国の指導者バッジと言えば、一般的には北朝鮮が思い浮かぶ。かつての指導者、金日成のバッジである。今も公務員らが指導者のバッジを着けているのは、世襲の独裁国家、北朝鮮ぐらいだろう。ところが、つい最近、時計の針を逆に戻すような出来事が東京でみられた。東京五輪の表彰台で中国の金メダリストらが、毛沢東の肖像をあしらったバッジを身につけたのだ。

自転車女子チームスプリントで優勝し、胸元に毛沢東のバッジを着けて表彰式に参加した中国の鮑珊菊(左)と鍾天使(2日、伊豆ベロドローム)=共同

多くの犠牲者を出した文化大革命の惨状、個人崇拝の恐ろしさを身にしみて知る世代は、安易に毛沢東バッジを身に着けるようなことはしない。たとえ共産党員であろうと同じである。その行為は、時代遅れで気恥ずかしいこと、とされてきた。これが鄧小平時代以来の伝統でもあった。

確かに毛沢東の遺体を安置している北京・天安門広場の記念堂の前や、江西省の井崗山といった革命の聖地では、土産物として毛沢東バッジが売られている。しかし、これを物珍しそうに買うのは、外国人観光客や、海外に住む中国系の人々だ。

東京五輪に「毛沢東バッジ」が登場した意味

過去に遡れば、中国の五輪選手が毛沢東バッジをつけて表彰台に立った例はある。今回も選手本人らが何を思って身に着けたは不明だ。しかし、脱「鄧小平路線」が強くにおう習近平時代の東京五輪に毛沢東バッジが登場したのはある意味、象徴的である。

自転車女子チームスプリントの表彰式に参加した中国選手の胸元の毛沢東バッジ(2日、伊豆ベロドローム)=ロイター

東京五輪に参加した20代中心の中国の若者らの多くは、1990年代生まれが多い。89年の天安門事件後の90年代半ば以降、鮮明になった「愛国主義教育」の影響も強く受けている。文革の悲惨さを知る彼らの親の世代の大半は、改革・開放路線にカジを切った鄧小平に感謝する一方で、毛沢東には複雑な感情を抱いている。親と子ではかなりの認識のズレがあるのだ。

その中国の若い世代で文革や毛沢東バッジへのアレルギーが消えつつあるのだとすれば、集団指導制の堅持、個人崇拝の徹底排除という長年の伝統も変化しうる。すでに存在する個人崇拝的な傾向を包み隠していたオブラートが溶けて消えてしまえば、5年前、内部で圧力を受けてお蔵入りした「習近平バッジ」が別な形で復活する可能性さえある。

7月末から夏の休暇などを名目に表舞台から姿を消していた最高指導部メンバーらは今週から復帰している。習近平がトップとしての続投を狙う22年秋の共産党大会まで残り1年余り。5年前に固まった「習近平核心」を巡る何らかのバージョンアップがあるとすれば、その雰囲気はまず秋の6中全会で明らかになる。(敬称略)

中沢克二(なかざわ・かつじ)
1987年日本経済新聞社入社。98年から3年間、北京駐在。首相官邸キャップ、政治部次長、東日本大震災特別取材班総括デスクなど歴任。2012年から中国総局長として北京へ。現在、編集委員兼論説委員。14年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞。』