非難合戦は終わるか 新型コロナウイルスの発生源論争

非難合戦は終わるか 新型コロナウイルスの発生源論争
編集委員 滝順一
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD1370M0T10C21A8000000/

『米国で新型コロナウイルスの発生源をめぐる論争が再燃し激しさを増している。野生動物から人間に感染が広がったのか。中国湖北省武漢市にある中国科学院武漢ウイルス研究所からウイルスが流出したのか。1年前には「動物感染説」が大勢を占めた科学界からも「流出説」を排除せず調査を求める声が上がった。バイデン米大統領は5月26日、情報機関に対しウイルスの起源の再調査と90日以内の報告を指示した。まもなく公表される見込みだ。世界保健機関(WHO)も再調査に動こうとしている。

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「嘘つきはあなたの方だ」。バイデン政権の首席医療顧問で、米国立アレルギー感染症研究所のアンソニー・ファウチ所長は強い言葉で言い返した。7月半ばの米上院公聴会で、共和党議員がファウチ氏にパンデミック(世界的大流行)の責任があるとほのめかしたためだ。

米上院公聴会で発言する米国立アレルギー感染症研究所のアンソニー・ファウチ所長(21年7月)=ロイター

アレルギー感染症研究所の上部組織である米国立衛生研究所(NIH)の資金が武漢ウイルス研究所の研究に使われていた。共和党議員は、ファウチ氏らが支援した研究がウイルスの流出源になったとファウチ氏を責めた。ファウチ氏は流出説には否定的な立場だ。2人の言い分はウイルスの発生源を巡ってまったく相いれない。共和党の一部の議員は流出説を裏付けるとする「最終報告書」を議会で公表している。

新型コロナウイルスが、感染力や病原性が強いウイルスを研究対象として扱う武漢ウイルス研究所から流出したとの仮説は、アウトブレーク(感染拡大)直後から取り沙汰されてきた。所員の感染などで市内に広がったとする見方だ。

当時のトランプ米大統領は、流出を隠蔽していると中国政府を強く非難、ポンペオ国務長官(当時)は「証拠もある」とした。中国は反発、非難合戦となった。

しかし米国の科学界は、新型コロナウイルスはコウモリ由来のコロナウイルスが突然変異し何らかの媒介動物を経て人間に感染するようになったと考える動物感染説を支持、研究所からの流出説を否定する声が大勢だった。ニューヨーク・タイムズ紙やワシントン・ポスト紙などリベラルな立場の主要メディアも科学界の見方を追認した。一部では流出説を科学的な根拠のない「陰謀論」として強く非難する見方すらあった。トランプ政権からは確固たる証拠は出なかった。

再燃した論争

こうして表面上は収まっていたかに見えた論争が2021年春以降、再燃した。今回は科学界からも流出説を退けずに「ありうるケース」として考えるべきだとの主張が前面に出ている。

米国の著名な免疫学者ら18人が米サイエンス誌(5月14日付)に、動物感染説と流出説の扱いが「バランスを欠いている」と指摘する書簡を公表し、公正な調査を求めた。「はっきりとした情報が得られていないのに(流出説はないと)決めつけるのは早すぎる」と、書簡に署名した米エール大学の免疫学者、岩崎明子教授は話す。

6月15日には、米国の科学、工学、医学の3つのアカデミーのトップが連名で「科学の原則に照らして新型コロナウイルスの起源について調査を求める」声明を公表した。米科学界の主流が流出説の可能性も排除しない姿勢を示した。

報道では、流出説の可能性を昨年から指摘してきた米ブロード研究所(マサチューセッツ州ケンブリッジ)のポスドク(博士研究員)、アリーナ・チャン氏に大手メディアのスポットライトが当った。同研究所は生命科学研究の有力拠点の一つ。チャン氏は新型コロナウイルスが人間の細胞に侵入することに最初から適応し過ぎているとし、研究所で培養されていた可能性を指摘した。若い研究者が科学界での孤立を恐れず自説を主張し続けたことを称賛する声がある。

ニューヨーク・タイムズ紙などの記者を長年務めたベテランのサイエンス・ジャーナリストであるニコラス・ウェイド氏が学術誌「ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツ」に長文の記事を掲載。20年に流出説を否定した複数の科学者グループの主張には確かな根拠がないとし、流出説を陰謀論と決めつけて退ける考え方に疑問を呈した。同誌は人類滅亡までの残り時間を示す「終末時計」の発表で知られる。

米ウォール・ストリート・ジャーナル紙は、未公開の米情報機関の報告書に基づくとして、武漢ウイルス研究所の3人の研究者が19年11月に入院して治療を要するほど体調を悪化させていたと報じ、ウイルス流出を示唆した。こうした報道や論評はいずれも流出説を裏付ける確定的な証拠を示したわけではない。ただ流出説を根も葉もない陰謀論と片付けてきた流れを変えたのは間違いない。

なぜ今になって流出説への支持が高まってきたのか。医学誌ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル(BMJ)の記事は2つの要因を指摘した。一つはトランプ前大統領の退陣だ。前大統領が流出説を声高に唱え中国を非難していたことから、トランプ支持と受け取られたり党派対立に巻き込まれたりするのを避けたい配慮があった。その呪縛が解けた。

もうひとつはWHO国際調査団の不首尾だ。1月に武漢入りした調査団は中国政府の監視下に置かれ十分な事実解明ができたとは言えない。「極めて可能性が低い」と流出説を事実上否定した調査団の報告書に対し、WHOのテドロス事務局長も失望を隠さず再調査を指示した。

中国政府が調査団を受け入れたのは、感染拡大から1年以上経過した後だ。調査に非協力的な印象を与えた結果、中国政府による隠蔽への疑念を広げ、流出説への同調者を増した。流出説に否定的なファウチ氏も中国にはさらなる情報開示を求めている。

「機能獲得」への懸念も

また流出の可能性を口にする科学者には「機能獲得(ゲイン・オブ・ファンクション)」研究のリスクを懸念する勢力もある。遺伝情報に手を加えるなどしてウイルスの能力を変える研究のことで、ウイルスの性質を解明しワクチン開発につなげるため必要だが、危険なウイルスをつくりだす恐れが指摘されてきた。一部の科学者は新型コロナの場合に限らず、機能獲得研究への規制強化を求める文脈で流出説の精査を求めている。

武漢ウイルス研究所は、中国南部、雲南省の洞窟に生息するコウモリから多数のコロナウイルスを採取して調べる研究に取り組み、1万以上の試料を保有するとされる。機能獲得の手法で、コロナウイルスを人間に感染できるよう手を加え、新型コロナが生まれたのではないかとの疑いが指摘されている。

武漢ウイルス研究所でコロナウイルス研究を率いる石正麗研究員(2017年2月)=AP

これに対し、同研究所でコロナウイルス研究を率いる石正麗研究員は、ニューヨーク・タイムズ紙の記事(6月14日付)で「ウイルスの毒性を高めるような機能獲得研究はやっていない」と強く否定した。「機能獲得研究」という言葉の定義が科学者の間で違っている可能性もある。

石氏はまた流出説自体を昨年から否定し続けているが、十分なデータが公開されない現状では確認しようがない。新型コロナウイルスはこれまでに世界で2億人以上に感染し400万人以上の命を奪った。しかし発生源についてはわからないことばかりだ。

武漢ウイルス研究所はエボラ出血熱など危険な病原体を安全に扱える、最も高い安全基準の施設であるBSL(バイオセーフティーレベル)4の実験施設を備える。BSL4施設は中国に2つしかない。石氏らは03年の重症急性呼吸器症候群(SARS)のパンデミックを契機にコウモリ由来のコロナウイルスの研究をしていた。石氏は安全基準の緩いBSL2レベルの実験室でウイルスを扱っていたとしている。ただ研究所からウイルスが流出した明確な証拠はない。

一方、武漢市の華南海鮮卸売市場で動物から人間に感染が広がったと当初から考えられてきたが、中国政府の調査では新型コロナウイルスが検出された動物は見つかっていない。コウモリの生息地から武漢までウイルスを運ぶ役割の動物がいるはずだが、特定できていないのだ。

いったいどこからどうやって現れたのか。すべてを明らかにするのは非常に困難だろう。真相に近づくのにすらまだ時間がかかるのかもしれない。米国側が科学的根拠に基づく真相を突きつけたとしても、中国側が認めるかどうかもわからない。その間、「嘘つきだ」「陰謀だ」と不信の応酬が続くのでは、科学や医学への不信を増幅させるばかりだ。

「物事の不確実性が大きく、自らが属する社会システムが脅かされていると感じる時、人間は陰謀論を信じやすい」と社会心理学者の唐沢かおり東京大学教授は話す。誰かの悪巧みだとする見方は、理解し難い状況にわかりやすい解釈を与え、善悪をはっきりさせたいという心情にも沿う。

終わらない論争の背景には問題が政治化していることもあるが、米国社会の分断も影を落とす。またインターネットの情報環境は、自分が信じることに符合する情報ばかりが目に入る「確証バイアス」に陥りやすいこともあるだろう。

「未来のパンデミックを防ぐためにも新型コロナウイルスの起源を知ることは大切だ」とエール大学の岩崎教授は話す。今回のパンデミックの経験から学ばなければならないことは多い。短兵急な政治的論争を避け、データに基づき事実が明らかになるまで忍耐強く調べ続ける。そこにしか道はないように思える。

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詫摩佳代
東京都立大学 法学部教授

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分析・考察 発生源解明は次のパンデミックを予防する上で極めて重要です。このままだと「Covid-26とCovid-32が起こりうるだろう」とCNNのインタビューで米医学者ピーター・ホッテズ教授は語っていました。

問題はそのための調査が米中対立にどっぷり組み込まれていることです。科学的な論拠を積み上げ、中国に真相を迫る米国。その米国に米中対立の構図の中で反発し、自国のメンツを守ろうと奮闘する中国。この問題は米中に任せていては埒があきません。地道に科学的な証拠を積み上げ、中国に対して国際社会として、発生源解明の意義とそれにむけた協力を、必要があれば圧力をかけていく必要があると感じます。

2021年8月18日 9:23いいね
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