サントメ・プリンシペで大統領選

サントメ・プリンシペで大統領選
https://www.jiji.com/jc/article?k=2021071800354&g=int

『【リーブルビルAFP時事】西アフリカのギニア湾にある島国サントメ・プリンシペで18日、大統領選の投票が行われた。カルバリョ大統領は引退を表明しており、ポセル元首相ら19候補が後継を争っている。』

 ※ 全く知らんかった国だ…。

 ※ しかし、下記の「歴史」は、注目だ…。

 ※ 欧州の国による植民地支配 → 二次大戦後に、独立→その際、「社会主義を選択」→ 東西冷戦構造における国の舵取り→ソ連崩壊の余波による混乱…、という流れは、アジア・アフリカの旧植民地に共通の話しだろう…。

 ※ 西側の諜報・情報機関による介入・工作も、当然あっただろうしな…。

 ※ 当然、東側のそれも…。

サントメ・プリンシペ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A1%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%9A

『歴史

詳細は「サントメ・プリンシペの歴史」を参照

サントメ島の地図(1665年)

この付近の島々は元々無人島であった。1471年にポルトガル人が上陸して以降はポルトガル領となり、さらに1522年にはポルトガル王室領にされた[3]。16世紀にはサトウキビの大生産地となっており[注釈 1]、奴隷貿易の中継基地ともなった[4]。19世紀に入るとサトウキビ生産は下火となったが、かわってコーヒーとカカオの栽培が盛んに行われ[注釈 2]、1908年には世界一の生産量を誇るまでになった[5]。そのための労働力として多くの奴隷がアフリカ大陸から連れてこられた。奴隷制度廃止後も、白人農園主の農園労働者に対する実質的な待遇は変わらず、広範な不満があった。

1960年に、現サントメ・プリンシペ独立運動(英語版)(MLSTP)の前身であるサントメ・プリンシペ解放委員会が設立され、独立運動が本格化したものの、島の規模が面積人口とも非常に小規模であったため、領内ではほとんど活動ができなかった[6]。しかし1974年のカーネーション革命によってポルトガルが植民地からの撤退を決めると、同年に暫定政府が設立され、1975年7月12日に正式独立し、MLSTP・PSDのマヌエル・ピント・ダ・コスタが初代大統領に就任した[7]。

独立後のサントメ・プリンシペはMLSTP・PSDのもとで一党制を敷き、アンゴラやキューバなどから軍の駐屯を受け入れ、旧社会主義陣営と密接な関係を持っていた[8]。しかし1990年代に入ると民主化の動きが強まり、1990年8月、国民投票で複数政党制への移行を決めた。1991年1月の総選挙で野党が過半数を獲得し、その支持を受けた民主集中党・反映グループ(英語版) (PCD-GR)のミゲル・トロボアダ元首相が3月の大統領選で当選して、この時に一党独裁制が終結した[9]。

1994年10月の総選挙ではMLSTP・PSDが第1党に返り咲き、さらに1998年11月の総選挙では過半数を獲得した。野党代表のトロボアダ大統領とMLSTP・PSDを与党とする内閣が対立・共存の状況となった。2001年7月の大統領選では、トロボアダ派の実業家で独立民主行動(英語版)(ADI)党員であるフラディケ・デ・メネゼスが当選した[10]。

ところが、2003年7月16日に軍事クーデターが発生し、フェルナンド・ペレイラが政府を打倒し、マリア・ダス・ネヴェス首相など数閣僚を拘留した。これは政府による多くの石油会社との商取引に反応したもので、1週間後にはペレイラ政権は旧政権の首脳らとの交渉を持ち、ペレイラは退陣した。そしてメネゼス大統領、ネヴェス首相ら政府首脳は復権した。2011年の大統領選挙では、MLSTPのダ・コスタ初代大統領が返り咲きを果たし、当選した。

2016年にはADIのエバリスト・カルバリョが大統領に就任した[10]。』