〔ターリバーン…。〕

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『ターリバーン(パシュトー語: ??????、T?lib?n、英語: Taliban)は、パキスタンとアフガニスタンで活動するイスラム主義組織。日本語メディアでは通常タリバン(またはタリバーン)と表記される。

1994年にムハンマド・オマルが創設し、1996年からアフガニスタンの大部分を実効支配し、アフガニスタン・イスラーム首長国を樹立した。2001年以降はアメリカ合衆国が主導する有志連合諸国やアフガニスタン政府と交戦し、2019年1月の時点でアフガニスタンの約1割(12%)の郡を掌握・勢力圏内に収めていた[1]。5月20日付けの国連報告書によると現在、都市中心部の外にあるアフガニスタン国土の推定50?70%、地区行政センターの57%を直接支配している。[2] 現在の指導者はハイバトゥラー・アクンザダ[3]。』

『名前の由来

「ターリバーン」という語はアラビア語で「学生」を意味する「ターリブ」(????)のパシュトー語における複数形であり、イスラム神学校(マドラサ)で軍事的あるいは神学的に教育・訓練された生徒から構成される。このため、ターリバーン構成員を数えるとき、一人なら単数形の「ターリブ」、二人以上なら複数形の「ターリバーン」が用いられる。

組織

最高指導者の下に指導者評議会(クエッタ・シューラ)があり、軍事委員会や財政委員会などがある[4]。また各州に州知事や州軍事司令官やイスラム法廷を置き、各郡にも郡長や郡軍事司令官を置いている[4]。国旗や国名(アフガニスタン・イスラム首長国)を持ち[5]、パキスタンの都市クエッタに指導者評議会、カタールに外交交渉のための政治事務所を設置している[6]。

現在の最高指導者はハイバトゥラー・アクンザダであり、副指導者としてシラジュディン・ハッカニ(英語版)やムハンマド・ヤクーブ(英語版)などが居る[4]。在カタール政治事務所代表はアブドゥル=ガーニー・バラダールである[4]。

国際連合によると、タリバンの総数は約4万5000人から6万5000人である[4]。パシュトゥーン人だけでなくタジク人やウズベク人、トルクメン人なども居り、指導部も多様な人種により構成されている[4]。

派閥としてはアフガニスタン東部のペシャワール派、北東部のバダフシャーン派、西部のマシュハド派などがある[4]。また最強硬派としてハッカーニ・ネットワーク、反主流派としてアフガニスタン・イスラム首長国高等評議会などがある[4]。

対外的にはアルカーイダやインド亜大陸のアルカイダ(AQIS)、パキスタン・ターリバーン運動(TTP)、ラシュカレ・タイバ(LeT)などと連携しており[4]、パキスタン軍統合情報局(ISI)の後援を受けている[7]。アメリカ合衆国やアフガニスタン政府、イスラム国(ISIS)とは敵対関係にある[4]。

資金

ターリバーンは麻薬や鉱物の販売、外国からの寄付、市民からの徴税により多額の収入を得ている[4]。一説によると2011年の収入は3億~5億米ドルに達し、そのうちケシ栽培による収入は約1億ドルと言われている[4]。ターリバーンは2017年頃からヘロインの生産も開始し[8]、現在はターリバーンの収入の半分(4億ドル)が麻薬の生産と輸出によるものという説もある[8][9]。』

『歴史

1990年代前半

背景

1990年代初頭、アフガニスタンはムジャーヒディーンの軍閥によって領地ごとに分裂し、互いに同盟、裏切りを繰り返し激しい内戦の最中であった。ラッバーニ大統領やマスードを中心とするジャミアテ・イスラミのタジク人政権は首都カブールと国内の北西部を支配し、ヘラート等の西部三州もジャミアテ・イスラミと深い繋がりを持つタジク人軍閥のイスマイル・ハンによって支配されていた。東部パキスタン国境地帯はジャララバードを拠点とするジャラルディン・ハッカニ等のパシュトゥーン人軍閥の評議会の手中にあった。また、南部の限られた地域とカブールの東側はパシュトゥーン人のヘクマティアールが支配していた。後にタリバン発祥の地となるカンダハールを中心とするアフガニスタン南部の大半は、何十もの旧ムジャーヒディーン軍閥や強盗集団によって分割支配され荒廃していた。 カンダハールを支配する数多の武装グループは、活動の資金源になるものは何でも奪った。電話線を引きちぎり、木を切り倒し、工場の機械や道路用のローラーまでもスクラップにしてパキスタンの商人に売った。軍閥は家々や農場に押し入り、住民を強制退去させ支持者達の手に渡した。司令官らは住民を思いのままに虐待し、少年や少女を誘拐して性欲を満たした。バザールの商人から品物を強奪し、街中で武装グループ同士の喧嘩による銃撃戦が頻繁に発生した。 カンダハールの住民の大部分を構成するパシュトゥーン人は、隣国パキスタンのクエッタなどの同じくパシュトゥーン人が多数派を占める都市に難民として脱出し始めた。

誕生

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ターリバーン側の主張によると、ムハンマド・オマルが20人の同志とともに始めたものだとされている。またターリバーン隊士がイスラム教の聖書「クルアーン」を学んだ場所は、国境付近の難民キャンプの教員が整っていないムハンマド・オマルの開いた神学校であった。この神学校出身者が、結集時のターリバーン隊士になる。

彼らが蜂起したきっかけはムジャヒディーン軍閥が二人の少女を誘拐したことへの抗議活動であった。彼らは無事少女たちを解放し、この出来事から地元住民らから正義の味方として扱われた。

発展

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「アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)」を参照

内戦が続くアフガニスタンにおいて、ターリバーンは1994年頃から台頭し始めた。彼らはマドラサと呼ばれるイスラム神学校の学生たちが中心であり、ターリバーンが快進撃を続け、軍閥を追い散らし、治安を安定させ秩序を回復するようになったので、住民たちは当初ターリバーンを歓迎した。当時、アフガン市民たちは、長年にわたる内戦とそれに伴う無法状態、軍閥たちによる暴行、略奪などにうんざりし、絶望感を抱いていたため、治安を回復するターリバーンの活躍に期待した。 しかしその後、ターリバーンがイスラム教の戒律を極端に厳格に適用し、服装の規制、音楽や写真の禁止、娯楽の禁止、女子の教育の禁止などを強制していくにしたがって、住民たちはターリバーンに失望するようになった[10]。

1998年にターリバーンがマザーリシャリーフを制圧した際に、住民の大虐殺を行った。この虐殺は、前年5月にマザーリシャリーフで起こったターリバーン兵大量殺害に対する報復[11] でもあるのだが、マザーリシャリーフはアフガニスタンの少数民族であるウズベク人やハザーラ人が大きな割合を占め、ターリバーンはこれらの少数民族、特にハザーラ人に対し虐殺を行ったことから、ターリバーンがパシュトゥン人からなり、パシュトゥーン民族運動の性格を併せ持つことを示すエピソードとなったと指摘されている[12]。

外国との関連

ターリバーンは、軍事面および資金面でパキスタン軍の諜報機関であるISI(軍統合情報局)の支援を受けていた。特にISI長官を務めたハミド・グル(英語版)は「ターリバーンのゴッドファーザー」とも呼ばれ[13]、アメリカが国際連合にハミド・グルのテロリスト指定を迫った際はパキスタンの友好国の中華人民共和国が拒否権を行使している[14][15]。

パキスタン軍にとり、敵対するインドとの対抗上、アフガニスタンに親パキスタン政権を据え、「戦略的な深み」を得ることは死活的な課題であった[16]。そして「親パキスタン政権」とは、民族的にはアフガニスタンとパキスタンにまたがって存在するパシュトゥン人主体の政権であり、かつ、パシュトゥン民族独立運動につながることを阻止する必要から、イスラム主義を信奉する勢力でなければならなかったという[17]。このためそうした要件を満たすターリバーンがパキスタンの全面的な支援を得て支配地域を拡大していった。 アフガニスタンにパキスタンの傀儡政権が成立することは、中央アジアにおける貿易やアフガニスタン経由のパイプラインを独占するという思惑、またインドとのカシミール紛争で利用するイスラム過激派をパキスタン国外で匿うという目論みにも好都合であった。

1997年にターリバーン軍がマザーリシャリーフの攻略に失敗し、その主力を一挙に喪失してからはISIはより直接的な関与を深めた。2000年の第二次タロカン攻略戦ではパキスタン正規軍の少なくとも二個旅団以上及び航空機パイロットがターリバーン軍を偽装して戦闘加入したとされている。このため2000年12月にはコフィー・アナン国連事務総長がパキスタンを非難する事態となった。

また、1990年代半ばにはサウジアラビア総合情報庁もパキスタンを通じてターリバーンに資金援助を行っており[18]、アフガニスタンの安定化に対するターリバーンへの期待は高かった。

また、強力で安定的な政権は中央アジア安定化につながるとして、アメリカ合衆国の支持を得ていた時期もあった。当時のアメリカのユノカル社が中央アジアの石油・天然ガスをアフガニスタンを経由したパイプラインでインド洋に輸送することを計画していたが、これはロシアやイランを避けるルートを取っており、米国政府としては好都合であり、このパイプライン建設計画を支持した。このパイプライン計画実現のためにはアフガニスタンの安定が前提条件であり、米国はターリバーンによるアフガニスタン支配に関心を示した[19]。アメリカの議会関係者や国務省関係者が和平の仲介を行おうとしたが、和平は成立しなかった。

1996年9月にターリバーンが首都カーブルを制圧し、ナジブラ元大統領を処刑した際、アメリカ国務省の報道官はターリバーンの行為を非難せず、むしろターリバーンによる安定化への期待を示すなどアメリカ政府のターリバーン寄りの姿勢を示した[20]。

ターリバーンによる首都カーブル制圧後、ターリバーンによる人権侵害、特に女性の扱いに世界が注目するようになり、米国もターリバーンへの姿勢を変化させていった。1997年11月にはマデレーン・オルブライト国務長官がターリバーンの人権侵害を批判し、米国のターリバーンへの反対姿勢を明確にした。1998年8月にケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破テロ事件が発生すると、アメリカは人権問題以上にテロの観点からターリバーンへの敵対姿勢を強めていった[21]。

1999年12月、カシミールの独立を目指すイスラム過激派によりインド航空機がハイジャックされ、アフガニスタンのターリバーンの本拠地だったカンダハルで着陸し、ハイジャックされた飛行機の乗客乗員155人を人質に立てこもる事件があった(インディアン航空814便ハイジャック事件)。その際に、ムタワッキル外相などターリバーン政権幹部の仲介により、インド当局が獄中にいるイスラム過激派(カシミール独立派)の幹部3人を釈放する代わりに乗員155人が解放された。国際的に孤立を深めるタリバン政権が、テロリストの釈放と引き換えにとはいえ、周辺国と連携して人質解放に尽力したことで、日本国内でも、国際社会もターリバーン政権をイスラム原理主義勢力として単純に敵視するのではなく、歩み寄りを行ってもよいのではないかとする論調があった[22]。また、これにはイスラム過激派支援集団とみなされていたタリバーン側の国際社会での汚名返上の思惑もあった。』
(※ 以下、省略)