不作為のサイバー敗戦 憲法が映す日本の死角

不作為のサイバー敗戦 憲法が映す日本の死角
Angle(2021年7月8日)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA01AQT0R00C21A7000000/

『宣戦布告なき戦争――。サイバー空間のリアルは近代で戦争とは定義されなかった「戦争」が時として起こる。万人の目には触れないこの「戦争」は増える傾向にある。サイバー敗戦は国家の危機を意味する。

6月16日のバイデン米大統領とロシアのプーチン大統領との初会談。その後の記者会見で、バイデン氏が「重要インフラへのサイバー攻撃を禁じるべきだ」と主張すれば、プーチン氏は「世界のサイバー攻撃で最も多いのは米国からだ」と反論した。

米国は最大級の石油パイプラインが5月にサイバー攻撃を受け、南部と北東部をつなぐエネルギーの大動脈が停止した。

情報通信研究機構(NICT)の調査によるとサイバー攻撃は2015年から20年に9倍ほど増加した。

世界を震撼(しんかん)させたサイバー攻撃の例は事欠かない。10年のイラン核施設のウラン濃縮用遠心分離機の障害は米国やイスラエルの関与が疑われ、15年のウクライナの停電はロシアの仕業とみられた。

インフラだけではない。トランプ氏とヒラリー・クリントン氏が争った16年米大統領選。米側はその後、ロシアからサイバー攻撃があったと結論づけた。一国の指導者を決める選挙に他国が介入し、その結果に影響をもたらすとしたら、それは国家主権の侵害だ。

近代の戦争の多くは宣戦布告により開始し、当事国で戦時国際法が適用された。沈黙と静寂のまま始まるサイバー攻撃はその主体が国家なのか、組織なのか、個人なのか判別しにくい。個人や組織の背後に国家が存在するケースもある。

日本の備えはどうか。英シンクタンク、国際戦略研究所(IISS)が6月28日に発表した各国のサイバー能力に関する報告書は日本を3段階で最も低い「第3グループ」と位置づけた。

第1グループの米国、第2グループの英国、中国、ロシアなどよりも下だった。報告書はその理由として「通信の秘密」を定めた憲法21条を挙げ「政府の通信に関する情報収集や偵察を厳しく制限している」と記した。

日米両政府は19年、深刻なサイバー攻撃には日本への防衛義務を定めた日米安全保障条約5条を適用すると申し合わせた。その前提は日米間の情報共有だが、憲法21条の規定を厳格に運用すると米国と情報をともにすることはできない。

慶大の土屋大洋教授は「米国は平時から潜在敵国のネットワークに侵入・監視し、米国へのサイバー攻撃が企図されると潰す作業をしている」と説明する。

「日本は憲法21条、電気通信事業法4条、不正アクセス禁止法などによってこうしたことが全くできない。インテリジェンス活動は例外だという認識がなく、グレーゾーンにある措置がとれない」と話す。

日本の法制度がサイバー攻撃という現実の脅威に対処できていないのは明らか。改憲か護憲かの旧来の論争と異なるのは、サイバー防衛の視点で憲法が問われていることだ。

東大の宍戸常寿教授は「『通信の秘密』以上に自衛権の問題がある。サイバー空間における自衛権の行使は許されるのか。先制攻撃は許されるのか」と指摘する。

「サイバーとフィジカルが融合している社会で、サイバー空間における人権、国家権力のあり方はどういうことか。サイバー防衛を正面から議論すべきだ」と提起する。

衆参の憲法審査会でサイバー防衛と憲法の関係を本格的に議論した形跡はない。新型コロナウイルスの感染拡大で示されたようにグローバル化とデジタル化の波は不作為にも容赦がない。

政治の不作為は怠慢と同義である。その不作為がサイバー敗戦をもたらす――。そんな展開にならないよう与野党は次期衆院選の公約でサイバー防衛と憲法の関係を整理し、迅速に対応してほしい。

政治部長(政治・外交グループ長) 吉野直也
政治記者として細川護熙首相から菅義偉首相まで14人の首相を取材。財務省、経済産業省、金融庁など経済官庁も担当した。2012年4月から17年3月までワシントンに駐在し、12年と16年の米大統領選を現地で報じた。著書は「核なき世界の終着点 オバマ対日外交の深層」(16年日本経済新聞出版社)「ワシントン緊急報告 アメリカ大乱」(17年日経BP)。』