〔モルドバ〕

モルドバ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%90

『モルドバ共和国(モルドバきょうわこく、ルーマニア語: Republica Moldova)、通称モルドバ、モルドヴァ(Moldova molˈdova)は、東ヨーロッパに位置する共和制国家。首都はキシナウ(キシニョフ)[3]。内陸国であり、西にルーマニアと、他の三方はウクライナと国境を接する。』

『概要

同国は嘗て、旧ソビエト連邦(ソ連)を構成していた国家の一つであった。面積は3万3,843平方キロメートルで、日本の九州をやや下回る。

モルドバ人は言語的、文化的にルーマニア人との違いがほとんどなく、歴史的には中世のモルダビア公国以後、トルコとロシアならびソ連[注釈 1]、ルーマニアの間で領土の占領・併合が繰り返された地域である。

現在、ドニエストル川東岸地域が沿ドニエストル共和国として事実上、独立状態にある。
国名

正式名称はルーマニア語でRepublica Moldova reˈpublika molˈdova。日本語表記での近似発音は「モルドヴァ」。

日本語の表記はモルドバ共和国。通称はモルドバまたはモルドヴァ。旧称はモルダビア[4]またはモルダヴィア。漢字表記は摩爾多瓦で、摩と略される。

公式の英語表記は Moldova mɒlˈdoʊvə

国名はルーマニア北東部の川(モルドバ川)の名前に由来する[5]。

ソビエト連邦の構成共和国であったモルダビア・ソビエト社会主義共和国から領土を継承し、1990年に国名をモルダビアからモルドバに変更した[5]。』

『歴史

詳細は「モルドバの歴史(英語版)」を参照

古代

古代ダキア

古代からモルドバ平原にダキア人がいたが、その後やってきたローマ人入植者も加わりこの地帯独自の文化が形成された。271年のローマ帝国軍撤退後は、ヨーロッパとアジアをつなぐという戦略上重要な位置にあるためキエフのルーシ、モンゴル系民族などの様々な侵略を受けた。ただしロシア側は、民族大移動時代にスラブ人がこの地域にたどりついた時、タタール人しか住んでいなかったと主張している。この辺はルーマニア北西部トランシルヴァニア地方をめぐる、ハンガリーとの歴史認識の違いに似ている。

中世時代

ベッサラビア(モルドバ)を含んだ大ルーマニア(1930年)
中世には、モルダビア公国の東部を構成していた。16世紀にはモルダビアはオスマン帝国の属国になったが、他のバルカン半島諸国と違って部分的な支配だった。露土戦争の結果、1812年からブカレスト条約によりベッサラビアとして帝政ロシアへ併合される。やがて第一次世界大戦が勃発し、モルダビアは戦乱に巻き込まれていく。

世界大戦時代

戦乱真っ只中の1918年にモルダヴィア民主共和国として独立宣言が行なわれたが、ドイツ帝国やルーマニア王国、ウクライナ人民共和国、ボルシェビキ・ロシアとの分離講和合意の調印後、同国の国民からルーマニア王国との連合を望む意思が強まったことや独立宣言から2週間近く経った2月26日(旧2月13日)にルーマニア王国軍が首都キシナウへ侵攻してきたとの報告により、それに促される形で同国指導部(長官会議)はルーマニア王国との連合を決定した。民主共和国という形で一度は独立を実現したモルダビアだったが、この出来事によって同国はその存在が潰えることとなり、同年4月9日にモルダビアはベッサラビアとして独立宣言を行い、同日からルーマニア王国の一部となる。 

第一次世界大戦終了後、嘗ての宗主国であった帝政ロシアがロシア内戦を経て滅亡。するとこれに代わる形でボリシェビキ・ロシアが主導するソビエトへ権力が集中され1922年にソビエト連邦が誕生。その傍ら、先のロシアでの革命の影響により、ルーマニア王国内で共産主義勢力が伸長。さらに当時の国王カロル2世が政府を解散させたことから、ルーマニアは共産勢力、右派の鉄衛団、王党派の三つ巴へと変貌し、不安定な政情となった。

第二次世界大戦で死亡した村民への慰霊碑。ストラセニ(英語版)(Străşeni)県コズセナ(英語版)(Cojușna)村にて撮影。

第二次世界大戦において、宗主国のルーマニア王国が枢軸国側で参戦することとなるが、戦前に調印された独ソ不可侵条約の秘密議定書によってソ連からルーマニア王国へ ベッサラビアと北ブコヴィナの割譲要求がなされ、同連邦は1940年にベッサラビアを占領。そこからモルダビア・ソビエト社会主義共和国(MSSR)が建国されソ連の構成国家となる。これは戦略的に重要な黒海沿岸など一部をウクライナ領としたもので、トランスニストリアが加わったものの面積は小さくなり、陸の孤島となった。

「ソビエト連邦によるベッサラビアと北ブコヴィナの占領(英語版)」および「ソビエト連邦によるベッサラビアと北ブコヴィナからの追放(英語版)」も参照

1940年8月2日、第7会期を迎えたばかりのソ連最高評議会により、MSSRの形成に関する法律が採択された。この法律は既存のモルダビア自治ソビエト社会主義共和国との連合化を図るためのもので、ソ連により占領されたベッサラビアのモルドバ人の人口をモルダビア自治共和国のモルドバ人の人口と再結集させる形で、失われた労働力とその人口の回復を狙っての計画でもあった[6]。

同年11月4日にソ連最高司令部により 、MSSRとUSSR(ウクライナ・ソビエト社会主義共和国)との境界が変更された。これによって、ベッサラビアに存在していたアッケルマン群(ロシア語版)、イズマエル郡(ロシア語版)、ホトィン郡(ロシア語版)はUSSRへ譲渡されることとなり、ベッサラビアの再配分後、採択された法律の意図とは裏腹にMSSRは1万平方キロメートルの領地と50万人の人口を失った。

だが、これをナチス・ドイツ側は「協定違反である」と見なした。独ソ不可侵条約が破られ独ソ戦が開戦されると、ドイツと同盟していたルーマニアも参戦。再びベッサラビアとウクライナの一部となっていた北ブコビナを併合し、その国土も嘗ての形となる。

1941年6月22日、ドイツのソ連侵攻(バルバロッサ作戦)初日に、ソ連当局によってラツェニ(英語版)(Răzeni)でモルドバ人10名が殺されるという事件が起きた。犠牲となった10名はのちに大墓へ埋葬され、ドイツやルーマニアなど枢軸国軍が東方へ進撃を続けていた同年7月、ラツェニに慰霊碑が設けられた[7] 。 1944年のソビエト軍による反攻(ヤッシー=キシニョフ攻勢)にドイツ軍やルーマニア軍は敗れ、モルドバは元のモルダビア・ソビエト社会主義共和国へと戻った。追ってスターリン政権の下、ルーマニア系住民256,800人がカザフスタンやシベリア送りとなった。

ルーマニア共産主義独裁研究委員会(英語版)の報告によれば、1940〜1941年の間だけでも86,604人が逮捕・強制追放されているとされ、現代のロシアの歴史家は、同期間に90,000人が追放されたのではないかと推計している[8]。

「ソビエト連邦による強制移住(英語版)」も参照』

モルドバ・バトルロイヤル 欧州最貧国で何が起きているのか?
https://globe.asahi.com/article/12984058

『旧ソ連で唯一ラテン系の国モルドバ

日本で「モルドバ」という国名を言っても、その位置やお国柄についてすぐにイメージが浮かぶ人は、多くないでしょう。モルドバは1991年暮れのソ連邦崩壊に伴って誕生した新興独立国の一つであり、下の地図に見るとおり、ウクライナとルーマニアに挟まれた内陸国です。なお、「沿ドニエストル共和国」というロシア語系住民による分離主義地域を抱えており、地図ではその部分が薄い緑になっています。

2004年に実施された国勢調査によれば、モルドバの全人口338万人のうち、民族的なモルドバ人が75.8%を占め、以下ウクライナ人8.4%、ロシア人5.9%、ガガウス人(キリスト教の正教を信奉するトルコ系民族)4.4%などと続きます。モルドバ人というのは、お隣のルーマニア人と同系統の民族であり、ラテン語系のルーマニア語を話し、その多くがキリスト教の正教徒です。首都は、人口69万人ほどのキシナウ。

日本でモルドバが一般の話題に上ることは、まずありません。オリンピックでモルドバのアスリートが活躍するといったことも、ほとんどありませんしね。強いて言えば、「ノマノマイェイ」という歌詞がクセになる「恋のマイアヒ」をヒットさせたO-Zoneが、モルドバ出身であるという話題くらいでしょうか。

「欧州最貧国」と呼ばれて

もう一つ、国際情勢、ヨーロッパ地域のことにある程度お詳しい方であれば、「モルドバは欧州最貧国である」というのを聞いたことがあるかもしれません。

下図では、旧ソ連12ヵ国の経済データを比較しています。一般的に、国の経済発展水準を比べるために用いられることが多い指標は、国民1人当たりの国内総生産(GDP)であり、その数字を縦棒で示しています。また、旧ソ連諸国では、貧しい国ほど国民が国外に出稼ぎに出て、彼らが本国にもたらす個人送金によって経済が成り立っている度合いが強いので、個人送金の対GDP比を折れ線で示してみました。

今回の主役であるモルドバの1人当たりGDPは、この中では最下位ではありません。ただ、タジキスタン、キルギス、ウズベキスタンは欧州ではなくアジアに属す国々です。一方、欧州系の国の中では、ウクライナの1人当たりGDPがモルドバのそれよりもわずかながら低くなっています。これは、ここ数年でウクライナに生じた経済的落ち込みと為替下落が原因であり、決してモルドバが盛り返したというわけではありません。言うまでもなく、ここに名前のない西欧・中欧諸国は経済水準がはるかに高いわけで、モルドバが(現時点ではウクライナと並んで)欧州最貧国であるという事実が確認できます。

中央アジアのタジキスタン、キルギスといった国は、国外出稼ぎ労働への依存度が、世界的に見てもきわめて高い国です。そして、農業と食品加工産業を除くと、国内にこれといった産業のないモルドバも、外国からの個人送金がGDPの16.2%に上っており、非常に高い出稼ぎ依存度となっています。

最貧国から巨額のカネを巻き上げた男がいた

このように、モルドバは貧しい小国ですので、遠い日本で注目を浴びることが少ないのも、やむをえません。

ところが、筆者のような、モルドバに強い愛着と関心を持っている者にすら、モルドバの政治は非常に理解しづらい代物です。普通は、保守VS革新とか、親欧米VS親ロシアとか、その国の政治を見る上での軸というものがあるはずなのに、モルドバの場合はどうもそういう安定した軸が見当たりません。国が小さい割には変化が目まぐるしく、1年くらい目を離していて、久し振りに情報を収集すると、別世界のようになっていることもあります。

この11月に、モルドバではサンドゥ首相率いる内閣が退陣に追い込まれ、キク首相を首班とする新内閣が成立しました。サンドゥ首相は、ACUMという欧州志向の改革派勢力を率いる聡明な女性リーダーです。その親欧米派のACUMが、バリバリの親ロシア派である社会主義者党と連立を組み、今年6月に成立したのがサンドゥ内閣でした。当初から「半年も持たない」などと指摘されていた無理な組み合わせであり、案の定、短命に終わったわけです。そもそもなぜ、6月に呉越同舟のような内閣が成立したのでしょうか。そして、いったん成立したはずの野合が、5ヵ月あまりで崩壊してしまった原因は何でしょうか。

順を追って説明しますと、モルドバでは今年2月24日に総選挙があり、社会主義者党が35議席、民主党が30議席、ACUMが26議席、残りが10議席という結果に終わりました。定数が101ですので、何らかの連立を組まなければ多数派が形成できません。しかし、三つ巴の連立交渉は難航を極め、ようやく期限ぎりぎりの6月8日に社会主義者党とACUMが連立協定にこぎ着け、サンドゥ内閣が成立したのでした。

その際に、路線が異なる社会主義者党とACUMを結び付けたのは、民主党と、そのリーダーであるプラホトニューク氏による支配体制に終止符を打たなければならないという危機感でした。プラホトニュークというのはモルドバを代表するオリガルヒ(政商)であり、大統領や首相への就任経験こそないものの、過去数年続いてきた民主党を中心とした政府の実質的な最高実力者でした。プラホトニュークは次第に権力をほしいままにするようになり、「世紀の窃盗」と呼ばれる犯罪行為で、欧州最貧のこの国から巨額の資金を巻き上げたのです。政策路線が正反対の社会主義者党とACUMが手を組まざるをえないほど、プラホトニュークの専横は目に余るものだったということです。

多数派工作で敗れて以降も、民主党は、すでに手なずけていた憲法裁判所に「連立は無効」と宣言させたり、社会主義者党とACUMの議員を議事堂に入れないようにしたりと、ありとあらゆる妨害工作を試みました。プラホトニュークは、親欧米路線を採っていれば、EUや米国が支援してくれるはずだと、過信していたようです。しかし、もともとプラホトニュークを敵視していたロシアだけでなく、この時点でEUや米国も同氏を見限り、国際的なプラホトニューク包囲網が完成しました(近年の国際政治で欧米露が足並みを揃えた稀有な事例に)。6月14日に米国の駐モルドバ大使がプラホトニュークと面談し、政権を明け渡すよう通告すると、彼はその足で空港に向かい、国外に逃亡しました。

明るい話題が少ないモルドバだが、最近同国名産のワインの魅力が知れ渡り、日本のネット通販などでも手軽に買えるようになったのは嬉しい(撮影:服部倫卓)

来年は大統領選挙

上述のように、異なる路線同士の連立は半年も持たず、社会主義者党が離反したことで、11月14日に議会でサンドゥ内閣不信任案が可決されました。同日、社会主義者党と民主党の支持により、キク新内閣が成立。キク新首相は、かつて民主党政権で蔵相を務め、最近ではドドン大統領の経済顧問を務めていた人物です。

ただ、社会主義者党とACUMの亀裂をもたらしたのは、左右や東西といった政策路線の違いというよりは、政治腐敗の問題と、それに関連した司法改革についての立場の隔たりだったようです。国内政治の浄化を進めたいサンドゥ首相は、司法改革を徹底しようとし、その一環として、検事総長を首相が任命する制度変更を狙いました。しかし、プラホトニュークなき後、国内の利権を掌中に収めつつあった社会主義者党にとって、それは不都合でした。もともと利権体質の権化である民主党がそれに同調し、サンドゥ内閣を退陣に追い込んだというのが真相のようです。

筆者は、モルドバの一連の政局を眺めていて、「これって、何かに似ているな。そうだ、プロレスの、『バトルロイヤル』だ」との結論に至りました。周知のように、バトルロイヤルというのは、多くのレスラーが同時にリングに上がり、入り乱れて戦う試合です。そこには様々な思惑や作戦が渦巻き、まず皆にとって厄介なAを潰すためにBとCが協力したりするけれど、次にはBを潰すためにCとDが組むとか、目まぐるしい合従連衡が繰り広げられるわけです。

それと同じように、モルドバの政治では争点や友敵関係が常に流動的です。今年6月には「反プラホトニューク」で社会主義者党とACUMが組みましたが、11月にはサンドゥによる行き過ぎた政治浄化に反発して社会主義者党と民主党が組みました。当然、親欧米VS親ロシア、右派VS左派という対立軸が前面に出ることもありますし、憲法体制が争点になることもあります。

モルドバでは、2020年秋に大統領選挙が予定されており、前回の大統領選と同様、社会主義者党の(公式的には無所属ですが)ドドン現大統領と、ACUMのサンドゥの一騎打ちになりそうです。その場合、今度の主たる対立軸は、親ロシア(前者)か親欧米(後者)かという東西地政学になる可能性が高いかもしれません。民主党の残党は、路線的には親欧米ですから、今度はサンドゥ支持に回るのでしょうか。バトルロイヤルはまだまだ続きます。

服部倫卓
一般社団法人ロシアNIS貿易会・ロシアNIS経済研究所 所長 』