〔ハイチの話し〕

ハイチ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%81

『歴史

詳細は「ハイチの歴史(スペイン語版、英語版)」を参照

先コロンブス期

紀元前4000年から1000年までの間にインディアンのアラワク人(タイノ人)が南アメリカ大陸のギアナ地方から移住してきた。タイノ人は島をアイティ(Haiti)、ボイオ(Bohio)、キスケージャ(Quesquiya)と呼び、島は五つのカシーケ(酋長)の指導する部族集団に分かれていた。ヨーロッパ人の征服によりアラワク人は消え去った。征服時にいたインディアンの数は、イスパニョーラ島の全てを併せるとおよそ100万人から300万人程だろうと推測されている。

植民地時代

詳細は「サン=ドマング」を参照
「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照

1492年にクリストファー・コロンブスがイスパニョーラ島を「発見」したとき、この島にはアラワク人(タイノ人)が住んでいたが、それから四半世紀のうちにスペインの入植者によって絶滅させられた。金鉱山が発見され、インディアンのカリブ人が奴隷として使役され、疫病と過酷な労働で次々と死んでいった。その後、スペインは主に西アフリカの黒人奴隷を使って主に島の東部を中心に植民地サント・ドミンゴ総督領(スペイン語版、英語版)の経営をした。島の西部をフランスが1659年以降徐々に占領していったが、衰退の一途を辿るスペインにはそれを追い払う余力はなく、1697年のライスワイク条約で島の西側3分の1はフランス領とされた。この部分が現在のハイチの国土となる。フランスはここを、フランス領サン=ドマング (Saint-Domingue) とした。この植民地は、アフリカの奴隷海岸から連行した多くの黒人奴隷を酷使し、主に林業とサトウキビやコーヒーの栽培によって巨万の富を産みだした。』

『米国による占領

詳細は「バナナ戦争」、「アメリカ合衆国のハイチ占領(英語版)」、および「米州相互援助条約」を参照

1870年代末以降、まだ国家分裂や反乱は続いたが、ハイチは近代化への道を歩み始め砂糖貿易などで経済が発展し始めた。しかしフランスへの賠償金は完済せず、近代化のための借金もふくらみハイチの財政を圧迫した。またドイツによる干渉とハイチ占領・植民地化の試みも繰り返されたため、カリブを裏庭とみなすアメリカの警戒を呼び、1915年、アメリカは債務返済を口実に海兵隊を上陸させハイチを占領、シャルルマーニュ・ペラルト(フランス語版、英語版)将軍などが海兵隊と戦ったが敗れ、数十万人のハイチ人がキューバやドミニカ共和国に亡命した。アメリカ軍は1934年まで軍政を続け、この間、合衆国をモデルにした憲法の導入、分裂を繰り返さないための権力と産業の首都への集中、軍隊の訓練などを行ったが、これは現在に続く地方の衰退や、後に軍事独裁を敷く軍部の強化といった負の側面も残した。またハイチの対外財政は1947年までアメリカが管理し続けた。

1934年には世界恐慌の影響や、ニカラグアでのサンディーノ軍への苦戦などもあって、ルーズベルト合衆国大統領の善隣外交政策により、ハイチからも海兵隊が撤退することになった。アメリカ占領以降、数人のムラートの大統領が共和制の下で交代したが経済苦境は続き、1946年にはクーデターが起こりデュマルセ・エスティメ(フランス語版、英語版)が久々の黒人大統領となった。社会保障や労働政策の改善、多数派黒人の政治的自由の拡大など様々な進歩的な改革を行おうとした。また国際協力の重要性、観光の振興、ハイチ文化の宣揚などを目的に、1949年から1950年にかけて、ポルトープランス万国博覧会を巨費を投じて開催している。

黒人側に立った改革がムラートと黒人との対立など国内混乱を招き、万博の巨額の費用はスキャンダルとなった。1950年にエスティメが憲法を改正して再選を図ろうとしたため、ムラート層や黒人エリートらがクーデターを起こし、黒人エリート軍人のポール・マグロワールによる軍事政権が誕生した。彼の時代、経済はコーヒーやアメリカからの観光などの景気でいっとき活況を呈したが、またも再選を図ろうとしたことをきっかけに全土でゼネラル・ストライキが起こり、混乱する中1956年末に彼はクーデターで打倒された。』

(一部、省略)

『デュヴァリエ親子による独裁
「キューバ危機」も参照

デュヴァリエ父子政権下のハイチ国旗

1957年、クーデターで誕生した軍事独裁政権下で、民政移管と大統領選出をめぐりゼネストやクーデター(July 1958 Haitian coup d’état attempt)が繰り返され政治は混乱したが、9月に行われた総選挙をきっかけに、黒人多数派を代表する医師でポピュリスト政治家のフランソワ・デュヴァリエが大統領に就任した。彼は福祉に長年かかわり保健関係の閣僚も歴任し、当初は「パパ・ドク」と親しまれた。

デュヴァリエ父子

翌1958年からデュヴァリエは突然独裁者に転じ、国家財政などを私物化し、ブードゥー教を個人崇拝に利用して自らを神格化することで当時北半球最悪と呼ばれた独裁体制を誕生させた。デュヴァリエは戒厳令を敷いて言論や反対派を弾圧。秘密警察トントン・マクートを発足させ多くの国民を逮捕、拷問、殺害した。1971年にデュヴァリエは死亡し、息子の19歳のジャン=クロード・デュヴァリエ(「ベビー・ドク」)が世界最年少の大統領に就いた。財政破綻による軍事クーデターでデュヴァリエ家が追われる1986年までの長期にわたり、トントン・マクートの暗躍する暗黒時代が続いた。

同時期の政権内部は腐敗が続いた。1976年のアメリカ合衆国議会上下院合同経済委員会では、ハイチへ進出したアメリカ企業の社長が賄賂を要求された様子を証言。政府関係者への賄賂を断ると社長が乗っていた車に黒づくめの男が突然乗り込み、「大統領官邸から来た」と名乗った上でハイチの軍人、警察の遺族年金に拠出を求めてきたという[4]。』

『デュヴァリエ以降

ビル・クリントン米大統領と握手するアリスティド大統領。(1994年10月14日)

ルネ・ガルシア・プレヴァル大統領。(2006年3月11日)

1987年に新憲法が制定され、民主的選挙によって選出された左派のアリスティドが1991年に大統領に就任。しかし、同年9月のラウル・セドラ(スペイン語版、英語版)将軍による軍事クーデター(1991 Haitian coup d’état)により、アリスティドは亡命。アリスティド支持派はハイチの進歩と発展のための戦線により多数殺害された。軍事政権は、国連(国際連合ハイチ・ミッション)及びアメリカ合衆国の働きかけ、経済制裁などの圧力、更に軍事行動を受けた結果、政権を返上。セドラ将軍は下野し、アリスティドは1994年に大統領に復帰した。1996年、アリスティド派のルネ・ガルシア・プレヴァルが新大統領になり、2001年には、再びアリスティドが大統領となった。

「ギ・フィリップ」および「ルイ=ジョデル・シャンブラン(英語版)」も参照

2004年2月5日「ハイチ解放再建革命戦線(フランス語版、英語版)」が北部の町ゴナイーヴで蜂起し、武力衝突が発生した(ハイチ・クーデター(英語版))[5]。1994年以降に国軍の解体が進められていたこともあり、反政府武装勢力に対し政府側は武力で十分な抵抗することは出来なかった。2月29日、アリスティド大統領は辞任して隣国ドミニカへ出国し、中央アフリカ共和国に亡命、同国においてフランス軍の保護下に入った(この顛末については、ジョージ・W・ブッシュ政権下のアメリカの関与も指摘されている)。アレクサンドル最高裁長官が1987年の憲法の規定に従って暫定大統領になった。三者評議会は直ちに賢人会議を立ち上げ、長く国連事務局にあったラトルチュを首相に指名、組閣が行われた。一連の動きに対し国連は臨時大統領アレクサンドルの要請に基づき多国籍暫定軍(MIF)の現地展開を承認し、3月1日には主力のアメリカ軍がハイチに上陸した(Operation Secure Tomorrow)。4月20日には安保理決議1542号(英語版)が採択され、MIFの後続としてブラジル陸軍を主力とする国際連合ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)を設立、治安回復などを図ることとなった。

「ラヴァラの家族」および「シテ・ソレイユ」も参照
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2006年2月に大統領選挙が行われ、再びアリスティド派のルネ・ガルシア・プレヴァルが51%の得票率で当選し、5月に大統領に就任した。』

『ハイチ地震

詳細は「ハイチ地震 (2010年)」を参照

2010年にマグニチュード7.0の地震が発生し、ポルトープランスを中心に甚大な被害が生じた。更に追い打ちをかけるようにコレラが大流行し、多数の死者が出た。地震を機にMINUSTAHの陣容は増強され、2011年時点も活動中である。

2010年11月にはプレヴァルの後任を決める大統領選挙が実施されたが、選挙にまつわる不正疑惑から暴動が発生、翌年3月にようやく決選投票が実施された。決選投票の結果、ポピュラー歌手出身のミシェル・マテリが大統領に選出された。民選大統領の後継を同じく民選大統領が務めるのは、ハイチの歴史上初めてのことである[6]。』

『国連平和維持軍の撤退と治安の悪化

2017年10月に国際連合ハイチ安定化ミッションを終了し、アリスティド追放以来駐留していた国連平和維持軍が撤退。これにより治安が再び悪化。首都ポルトープランスでもギャングが徘徊し、民家に押し入って乱暴し、たまりかねた市民が区役所の中庭などに避難する事態となった。ギャングたちは市内で我が物顔に行動しており、公式には否定されているものの、政権及び反政権の政治家との癒着が噂されている。

2020年にはギャングによる誘拐事件が日常茶飯事となり、国連の発表では前年比3倍に当たる234件が発生。しかしポルトープランスに拠点を置く人権保護団体の見解によれば、実数は796件に及ぶ[7]。

2021年7月7日、ジョブネル・モイーズ大統領が自宅で正体不明の奇襲部隊に暗殺された(ジョブネル・モイーズ暗殺事件)[8]。全権を掌握したジョゼフ暫定首相が同日、声明で明らかにした[9]。』

『外交

「ハイチの国際関係」および「en:Foreign relations of Haiti」も参照

歴史的に関りが深いアメリカ合衆国やフランスのほかカナダとの関係を重視している。キューバとも1996年に国交を回復させた[2](キューバ革命で米国や親米諸国と対立関係にあった)。カリブ海世界や中南米の一国としてカリブ共同体(CARICOM)やラテンアメリカ・カリブ共同体(CELAC)に参加している。政情不安や災害による打撃が大きく、国際連合や米州機構(OAS)の支援を受けている[2]。

日本との外交関係は、太平洋戦争後の1956年に再開された。在ドミニカ日本大使館による兼轄を経て[2]、2020年1月1日に在ハイチ日本大使館が開設される予定である[10]。

「日本とハイチの関係」も参照

ハイチは中華民国(台湾)を承認している[2]。』