幻想だった司法権の独立

幻想だった司法権の独立
憲法のトリセツ
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD289F50Y1A620C2000000/

 ※ 「日本国憲法は、米国、と言うより「米軍の占領行政に」強く影響されて、成立した。」とは、憲法を少しかじった人なら、誰もが聞く話しだ…。

 ※ そういう話しの「細部」が語られていて、参考になる…。

 ※ さらには、一旦は、「ファシズム勢力」対策で手を結んだ、「連合国」陣営が、伊・独・日の敗戦後、すぐに「仲違い」して、激しい主導権争い、覇権の争奪戦に入ったことも…。

 ※ そして、日本国は、激しい「社会主義陣営」による「工作」の「草刈り場」となったことも…。

 ※ 今、この年(とし)になって考えることは、「憲法秩序も、司法権の独立も、国(くに)そのものの成立・生存が保全されていなければ、しょせんは意味のないことだ…。」というものだ…。

 ※ それと、この問題を論じるのに「駆り出されている」「有識者」は、たいがいは「学者さん」だ…。

 ※ 頭脳優秀、論理明解で、すこぶる歯切れがいい…。

 ※ しかし、事は「国家存立の礎(いしずえ)」に関わる事がらだ…。

 ※ 一億人以上の「日本国民の行く末」がかかっている…。

 ※ たとえ、歯切れ悪く、格好悪くても、「国(くに)の行く末」の存立を、図っていかないと…。

 ※ 論理明解、旗幟鮮明で「進め、一億火の玉だ!」で突っ込んで、「国破れて、山河のみ。」になった、どっかの国があっただろう…。

『米軍が日本に駐留することの是非が問われた砂川事件の2回目です。1959年3月、東京地裁が米軍の駐留は憲法違反と判断した「伊達判決」は、当時の岸信介首相だけでなく、米アイゼンハワー政権にも衝撃を与えました。米軍が日本から撤退せざるを得なくなった場合、冷戦下における米国とソ連のパワーバランスが大きく変動しかねなかったからです。
暫定条約だった旧安保

日本は51年9月、サンフランシスコ平和条約に調印した際、日米安全保障条約(旧安保条約)も締結しました。当時の日本は50年8月に警察予備隊を創設していたものの、まだ軍事力と呼べるほどの存在ではなく、米軍がいなくなると極東に軍事的な空白が生じるおそれがありました。日本が独立を回復したあとも米軍が日本に居続ける法的な根拠が必要でした。

1951年9月、日米安全保障条約に調印した首席全権の吉田茂首相。後ろは確認する米首席全権のアチソン国務長官(右)とダレス全権(中)= 米陸軍撮影・共同

こうした経緯は条約の前文に明確に書いてあります。

「日本国は、武装を解除されているので固有の自衛権を行使する有効な手段をもたない」
「無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていないので、日本国には危険がある」
「日本国は米国との安全保障条約を希望する」
わかりやすく言えば、日本が「米軍さん、見捨てないで」とすがりついたわけです。

これに対する米国の回答も書いてあります。

「米国は、若干の自国軍隊を日本国内及(およ)びその付近に維持する意思がある」
「米国は、日本国が自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待する」
要するに「しばらくは守ってやるけど、いずれは自前でやれ」ということです。

1951年に締結された旧日米安全保障条約(外交史料館所蔵)

この条約の特徴のひとつは、期限の定めがあいまいなことです。「国際連合の措置又(また)はこれに代(かわ)る個別的若(も)しくは集団的の安全保障措置が効力を生じたと日本国及(およ)び米国の政府が認めた時はいつでも効力を失う」と書いてあるので、国連に常備軍ができるか、北大西洋条約機構(NATO)軍のような集団的安全保障の枠組みができることを前提にした暫定条約的な書き方です。

動き出した再軍備

日本は52年4月にサンフランシスコ平和条約が発効すると、再軍備をめざして動き出します。10月には警察予備隊を保安隊に、54年7月には自衛隊に格上げしました。

54年12月に首相に就いた鳩山一郎は、翌55年2月の衆院選では「自主憲法制定」「再軍備」を掲げ、日本民主党を第1党に押し上げました。米国には安保条約の改定を申し入れています。

ちなみに、日本と同じ敗戦国だった西ドイツは54年10月に米英仏とパリ協定を結び、再軍備してNATO軍に加わることで合意しました。

米国は54年9月、アジア版のNATOともいうべき東南アジア条約機構(SEATO)をオーストラリア、フィリピンなどとつくりました。日本が憲法改正、再軍備していたら、その一員になっていたかもしれません。

鳩山首相は就任直後の54年12月に自衛権に関する政府統一見解を示しました(鳩山発言とされることがよくありますが、読み上げたのは大村清一防衛庁長官です)。

「自衛権は独立国である以上、当然に保有する権利である。武力の行使が放棄されるのは『国際紛争を解決する手段として』ということ。国土を防衛する手段として武力を行使することは憲法に違反しない」

この見解は、現在に至るまで日本政府の自衛権に関する基本的な憲法解釈です。専守防衛のための自衛隊であれば合憲という考え方です。

とりあえず、この憲法解釈により、憲法改正がすぐに実現しなくても事実上の再軍備は可能となりました。問題は安保条約改定です。サンフランシスコ平和条約に加わらなかったソ連との国交正常化に動いた鳩山首相を容共と見た米国は安保改定に非協力的でした。

それでも55年11月に保守合同によって自民党が誕生し、57年2月に岸信介が首相に就くと、米国も安保改定に応じる姿勢に転じました。日本がお願いして米軍にいてもらうのではなく、日米が対等な同盟国として相互に役割分担する、というのが岸のめざす安保の姿でした。

正式な日米交渉が58年10月に始まると、社会党を中心に激しい反対運動が起きます。59年3月に一般市民も取り込んだ安保阻止国民会議が結成されました。当時の社会党は非武装中立を唱えており、米国と安保条約を結んでいること自体が許せないという立場でした。砂川事件は、単なる米軍基地の拡張反対運動ではなく、米軍出て行け運動でした。

この安保阻止国民会議の結成と伊達判決が同時だったことが、裁判の行方に大きく影響しました。岸首相としては、米軍の駐留は合憲という司法判断が必要であるのみならず、裁判が長引くだけでもマイナスでした。米軍の駐留が合憲か違憲かがはっきりしないと、新安保条約をつくりようがなかったからです。

危機感を抱いた米大使
岸首相以上に危機感を抱いたのが、米国のダグラス・マッカーサー2世・駐日大使でした。GHQ(連合国軍総司令部)を率いたダグラス・マッカーサー最高司令官の兄アーサーの三男に生まれ、57年2月から東京で大使を務めていました。

ダグラス・マッカーサー2世=共同

布川玲子・新原昭治編著「砂川事件と田中最高裁長官」などによると、大使は伊達判決の翌朝、ひそかに藤山愛一郎外相に会うと、「東京地裁判決を正すことの重要性」を強調します。それだけでなく、一刻も早く”正す”ため、刑事訴訟法406条の適用まで求めました。

406条は「最高裁は法令の解釈に関する重要な事項を含むものと認められる事件については、自ら上告審としてその事件を受理することができる」という規定です。一般人には意味不明な文章ですが、要するに一審判決後に高裁を経ずに最高裁で審理することもあるということです。裁判用語では跳躍上告と言います。高裁を省けば、最高裁が最終結論を出すまでの時間が短くて済みます。ちなみに、跳躍上告は戦後日本でこの1例しかありません。

米政府の公文書によれば、外務省はその日の夕方には大使に「跳躍上告するかは検討中」と知らせています。翌4月1日には今度は藤山外相が大使を訪ね、①支持されてきた憲法解釈が上訴審で維持されることに確信を持っている②跳躍上告の方法を法務省が検討中③最高裁には係争中の案件が3000件もあるが、砂川事件を最優先で扱うと信じている――と経過報告しました。

跳躍上告が決まったのは4月3日でした。建前でいえば、決める主体は東京地検ですが、大使から国務省への公電によれば、伝えてきたのは岸首相の側近として知られた福田赳夫自民党幹事長であり、政府・与党で決めたと告げています。

最高裁長官自ら情報漏洩

田中耕太郎最高裁長官は米大使館に手の内を明かしていた
跳躍上告が決まると、米大使館は最高裁にも接触を始めます。8月にはウィリアム・レオンハート首席公使が、なんと田中耕太郎最高裁長官とじかに話しています。米公文書によれば、田中長官は①弁護団は裁判の引き延ばしを図っているが、12月には判決を出す②世論を揺さぶる要因となりかねない少数意見を封じるため、判決は15人の裁判官の全員一致にする――などの手の内まで明かしています。

なぜ判決時期が12月なのかといえば、日米の安保改定交渉の決着目標が60年1月だったからです。何が何でも「米軍の駐留は合憲」に向け、日本の行政と司法と米政府が一体となっていたことがうかがえます。司法権の独立は幻想でした。

田中長官が情報漏洩した通り、最高裁は59年12月に合憲判決を出しました。次回は、その理屈づけを分析します。

編集委員兼上級論説委員 大石格

1961年、東京都生まれ。政治部記者、那覇支局長、政治部次長、ワシントン支局長を歴任。現在の担当は2面社説、コラム「風見鶏」(2004年5月~現在)など。著書に「アメリカ大統領選 勝負の分かれ目」(単著)、「コロナ戦記」(共著)。慶応義塾大学特別招聘教授。ツイッターは@OishiItaru 』