水素争奪戦に備えを 脱炭素が迫る資源安保

水素争奪戦に備えを 脱炭素が迫る資源安保
編集委員 松尾博文
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGH16AJ20W1A210C2000000/

『自動車の大衆化に道を開いた「T型フォード」が米国で発売されたのは1908年。同じ年、ペルシャ湾の奥深く、現在のイラン南西部のマスジェデ・スレイマンで中東最初の油田がみつかった。

第1次世界大戦に向かう情勢緊迫の折、石炭から石油へ艦艇の燃料転換を急ぐ英国政府はアングロペルシャ石油(後のBP)を買収してこの油田を管理下に置いた。

以来、英国から米国へ主役は代わっても、石油を握る国が覇権と繁栄を手に入れ…

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以来、英国から米国へ主役は代わっても、石油を握る国が覇権と繁栄を手に入れた。供給地としての中東は20世紀を通してエネルギー地政学の中心にあった。

日本も例外ではない。田中角栄元首相の懐刀として列島改造論を支えた元通商産業(現経済産業)次官の小長啓一氏は「中東産の安い原油にいち早くアクセスし、臨海部の製油所や石油化学コンプレックス(コンビナート)に運び込む体制を政官民一体で整えたことが工業化の原動力になった」と指摘する。

カーボンゼロはこの前提を覆す。石油・天然ガス部門を手放し、風力発電へ事業の軸足を移したデンマークの政府系エネルギー会社オーステッドの時価総額は、日量260万バレルの石油・天然ガス生産量を持つBPに迫る。

保有する地下資源の多寡はもはや力の源泉ではない。左右するのは脱炭素の技術を支配する力だ。勝敗は気候変動問題の行方にとどまらない。企業の競争力、ひいては国力を左右する。技術革新をいち早くなし遂げた者が飛躍を手にし、遅れれば存亡の機を迎える。

担い手は違う世界から現れる。電気自動車(EV)を手掛ける米テスラの時価総額はトヨタ自動車や米ゼネラル・モーターズ(GM)、独フォルクスワーゲン(VW)など、世界の主要自動車メーカーを合わせた規模を上回る。

T型フォードは市中から馬車を駆逐した。テスラのEV「モデル3」がガソリン車を駆逐する現代のT型フォードとなるのかどうか、結論を出すのは早いかもしれない。しかしイーロン・マスク最高経営責任者(CEO)は二酸化炭素(CO2)の回収技術を競う競技会に賞金1億ドル(約105億円)を提供すると表明した。車載電池からCO2回収まで脱炭素技術を根っこから押さえにかかる。

米アップルがEV生産を探り、中国インターネット検索最大手の百度(バイドゥ)も自動車大手と提携しEVの製造販売に乗り出す。異業種が脱炭素で結びつき、社会・産業構造を変える。

日本にためらう余裕などない。ただし変革の土台はカーボンゼロのエネルギー供給と利用が前提だ。経済産業省は50年の電源構成に占める太陽光や風力など再生可能エネルギーの比率を50~60%とする参考数値を審議会で示した。

なぜ50~60%なのか。議論の余地はあるだろう。しかし再生エネで電力をすべて賄えないならば、選択肢は原子力を使うか、水素やアンモニアなど燃焼させてもCO2を出さない脱炭素燃料を使うか、化石燃料を使いながら排出するCO2を集めて処理するかだ。

仮に電力をすべてカーボンゼロにできても、電力では代替が難しいエネルギー用途がある。たとえば製鉄だ。生産の主流である高炉法では鉄鉱石の還元に石炭(コークス)を使うために大量のCO2が出る。スクラップを原料に使う電炉に変えても、鉄鋼需要の純増分は鉄鉱石に頼らざるを得ない。

石炭の代わりに水素を還元に使う技術が脱炭素の切り札とされる。日本鉄鋼連盟によれば足元の年間8千万トン前後の銑鉄生産には水素700万トン(約800億立方メートル)が要る。現在の水素価格は1立方メートルあたり100円程度。政府の水素戦略は長期で20円に引き下げる目標を掲げる。石炭から置き換えるには8円を切る必要があり「大量の水素を安価に安定的に確保する体制」(日本鉄鋼連盟の小野透特別顧問)が欠かせない。

脱炭素に寄与する水素のつくり方は2つある。再生エネを使って水を電気分解して取り出すのが一つ。石油や石炭など化石燃料から水素を取り出し、残るCO2を回収して地中に戻したり、工業原料に再利用したりするCCUS(CO2の回収・利用・貯留)技術と組み合わせるのがもう一つだ。

福島県浪江町に世界最大級の能力を持つ電気分解装置がある。ここで東京ドーム5つ分の敷地の施設を使ってできる水素は定格運転で年間約900トンだ。鉄鋼業界が必要とする量やコストは現実と「桁が違う」(製鉄会社幹部)。

またCO2の地中埋設の技術が確立できても、日本周辺に埋めることができる適地がどの程度あるのかとなると話は別だ。これを見極める必要がある。

化学やセメントの生産も高温の熱を使う。発電や燃料電池自動車も水素をあてにする。国内で需要を満たす水素が入手できず、CO2を埋める場所もないなら、海外に求めるしかない。

安定した風が吹き、日射量が豊かで広大な土地がある国、またはCO2を埋める地下構造がある国が候補となる。すなわち脱炭素時代の資源国が出現する。中東やオーストラリアで広大な土地をいかした水素生産やCO2を埋め戻す場所の獲得競争が始まっている。

脱炭素の前途に控えるのは水素の争奪戦だ。日本も資源国との関係や輸送路の安全、貿易ルールの整備など安定確保のための資源戦略が欠かせない。脱炭素時代にエネルギー安全保障の重要性は軽減されるどころか増すのである。

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松尾博文(まつお・ひろふみ)1989年日本経済新聞社入社。エネルギーや商社、機械・プラントなどの業界や経済産業省、外務省などを取材。イラン、エジプト、アラブ首長国連邦(UAE)の3カ国に駐在した。現在は編集委員兼論説委員。エネルギー問題、インフラ輸出、中東・アフリカ情勢などを担当。