ミャンマー軍政「後見役」の中国、愛憎と打算の関係史

ミャンマー軍政「後見役」の中国、愛憎と打算の関係史
アジア総局長 高橋徹
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『2160キロメートルもの国境を接する国で起きた政変を、さすがに手放しで歓迎はできなかったのだろう。1日にミャンマーで起きたクーデターについて、中国は「友好的な隣国」と述べるにとどめ、静観を決め込んた。

政府の公式見解より、御用メディアの報道の方がわかりやすい。国営通信の新華社はミャンマー国軍による政権転覆を「大規模な内閣改造」と表現した。共産党系の環球時報は「選挙での敗北を認めず、首都での暴動を扇…

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政府の公式見解より、御用メディアの報道の方がわかりやすい。国営通信の新華社はミャンマー国軍による政権転覆を「大規模な内閣改造」と表現した。共産党系の環球時報は「選挙での敗北を認めず、首都での暴動を扇動したとされるトランプ前大統領が、ミャンマー国軍を触発したのではないか」と米国に当てこすった。

深まる米中対立はいまや「民主主義vs強権主義」という国家体制の違いを巡る対立に発展した。後者の優位性を盛んに宣伝する中国が、民主主義における最大の犯罪行為であるクーデターを非難しないことは、首謀者のミン・アウン・フライン総司令官も計算ずくだったはずだ。

クーデターを首謀したミン・アウン・フライン国軍総司令官(3日、国営放送)=ロイター

米欧が今後、経済制裁を発動すれば、ミャンマーはますます中国に傾く。「このままだと中国の属国になりかねない」といった悲観論も聞かれる。本当にそうか。ミャンマー、とりわけ国軍と中国との過去の複雑な関係をたどれば、話はそれほど単純ではないように思える。

ミャンマーが英国から独立したのは1948年、中国共産党が国民党を放逐して中華人民共和国を建国したのは49年だ。国家としての成立が同時期の両国は、翌50年に早くも国交を樹立し、60年には国境条約を結んだ。インドとの間でいまも国境紛争が続く中国が、国境問題を円満に解決した最初の相手がミャンマーだった。

良好だった関係が一変したのは60年代に入ってからだ。62年、ミャンマーではネ・ウィン将軍率いる国軍がクーデターで文民政権を倒し、その後半世紀に及ぶ軍事政権の幕が開いた。一方、中国で66年に文化大革命が始まると、共産主義革命の輸出を外交政策の柱に据えるようになった。

当時最大の反政府武装勢力「ビルマ共産党」に対し、資金や武器を供与する中国とミャンマー軍政の関係は冷え込んだ。67年、まだ首都だったヤンゴンで大規模な反中国暴動が起き、死傷者が出ると、大使の召還合戦に発展した。

76年に中国で文革が終わると、3度目の復権を果たした鄧小平氏は、78年に改革開放や善隣外交を新政策に掲げた。鄧氏は最初の外遊でミャンマーを訪れ、ビルマ共産党への支援を縮小するなど、隣国との関係修復を進めた。

1989年、民主化運動の指導者としてヤンゴンで演説するスー・チー氏。当時のミャンマー軍政を、国際社会で真っ先に承認したのが中国だった=ロイター

そして88年、ミャンマーで大規模な民主化運動が起き、病気の母親を看病するため英国から帰国中だったアウン・サン・スー・チー氏が請われて政治の表舞台に登場する。ネ・ウィン政権がデモ隊を弾圧、数千人の死者が出ると、国軍は事態収拾のため同政権を転覆する「自家クーデター」を決行し、衣替えして軍政を継続した。

その際、ミャンマー軍政を世界で真っ先に承認したのが中国だ。中国自身も翌89年、民主化要求を戦車で蹂躙(じゅうりん)した天安門事件で、米欧から激しい非難を浴びた。東南アジアへ接近した中国にとり、置かれた立場の似通うミャンマーとの関係緊密化は、戦略的な意味合いを伴っていた。

自宅軟禁したスー・チー氏への弾圧を批判し、97年以降に米欧がミャンマーへの経済制裁を強めると、経済大国として台頭してきた中国は投資の担い手、商品の買い手として支えた。米欧の制裁下でも軍政が生き延びたのは、中国の存在があってこそだった。

その軍政が2003年に自ら民主化ロードマップを策定し、民政移管へ段階的に準備を進めたのは、過度の中国依存の危うさと、米欧との関係改善の重要性を分かっていたからだ。例えば中国の支援で開発する発電所は、電力の9割を中国向けに供給する条件を課すなど、停電頻発に苦しむミャンマー国民からの評判は最悪だった。

だからこそ軍政は、徐々にではあるが「脱・中国」の試みを進めた。

民政移管に向けた10年の総選挙の直前には、北部の商都マンダレーに氾濫していた漢字の看板の撤去を命じた。安価な中国製二輪車が市場を独占し、特産のヒスイやルビーの買い付けに中国人が大挙して押し寄せる街なのに、だ。

11年に軍政を承継したテイン・セイン政権は同年、イラワジ川上流で中国と共同で建設していた「ミッソンダム」の工事凍結を突如として表明した。流域の環境や住民に与える影響が大きいとかねて批判が強く、軍出身の大統領が「国民の意思に反する」と説明した。14年には中国・雲南省からミャンマー西部のチャオピューまで共同建設に合意していた鉄道計画を、これも国内の反対を理由に白紙撤回した。子飼いと思っていた隣国の〝反乱〟に中国が不快感を示したのは言うまでもない。

16年に政権を握ったスー・チー氏は中国に接近した(20年1月、習近平国家主席=左=との会談)=ロイター

両国の距離を再び縮めたのは、むしろ16年に発足したスー・チー氏率いる文民政権の方だ。中国とは「水と油」と思われたスー・チー氏だが、イスラム系少数民族ロヒンギャの迫害問題で自身が国際社会の非難を浴びると、ミャンマーに肩入れする中国に傾いた。

広域経済圏構想「一帯一路」を受け入れて「中国・ミャンマー経済回廊」の整備に合意。チャオピューでの大型港湾開発のほか、政変が起きる3週間前には、旧軍政が葬ったはずの鉄道の事業化再調査の覚書まで締結していた。

クーデターによって政治権力を奪い返したミャンマー国軍も、当面は中国の支援をあてにしているのは間違いない。ただし、そもそも中国一辺倒のリスクをかねて認識していたのは国軍自身である。

「国軍」と「中国」が、ミャンマー国民の反感を呼び起こす二大キーワードであることや、制裁再発動をちらつかせる米欧が自国をこのまま中国の側に追いやるのをためらっていることを、ミン・アウン・フライン氏は十分に理解しているだろう。1年間の非常事態宣言の解除後、再選挙実施を公言している同氏は、民意をこれ以上敵に回さないよう、中国との間合いを慎重にはかる可能性が高い。

曲折を経たミャンマーと中国の隣国同士の関係史に、米中対立下での国際政治の打算が複雑に絡み合うのが、いまのミャンマーを取り巻く状況だ。世界を揺るがせたクーデター後の駆け引きは、決して一筋縄ではいきそうにない。

=随時掲載

高橋徹(たかはし・とおる) 1992年日本経済新聞社入社。自動車や通信、ゼネコン・不動産、エネルギー、商社、電機などの産業取材を担当した後、2010年から5年間、バンコク支局長を務めた。アジア・エディターを経て、19年4月からアジア総局長として再びバンコクに駐在。論説委員を兼務している。著書「タイ 混迷からの脱出」で16年度の大平正芳記念特別賞受賞。