ジル・バイデン

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『生い立ち
ジル・トレイシー・ジェイコブスは1951年6月3日にアメリカ合衆国のニュージャージー州ハモントン(英語版)にて出生した(2009年の『ワシントン・ポスト』[1]などに記載されている誕生日6月5日は間違いである)[2][3]。その後に一家は移住し、ジルと彼女の4人の妹はペンシルバニア州ウィローグローブ(英語版)で子ども時代の大半を過ごした[4]。父親のドナルド・カール・ジェイコブス(1927–1999)[5]は銀行の出納係(英語版)を務め、貯蓄貸付組合の頭取に昇進した[6]。シチリア出身者を祖先に持つジルの家系の姓は元々はジャコッポであったが、途中からイギリス化をしてジェイコブスに改称した[7]。母親のボニー・ジーン・ジェイコブス(1930–2008)[5]は主婦であった[6][8]。

キャリアを求めて15歳の時にアルバイトを始めた[6]。1969年にアッパーモアランド高校(英語版)を卒業した[3]。』

『結婚と仕事

若かりしころのバイデン夫妻

1980年4月。バチカン市国でローマ教皇ヨハネ・パウロ2世と会見するバイデン夫妻

ペンシルベニア州の短期大学に入学したジルはファッションのマーチャンダイジングについての勉強を始めたが、満足のいくものではないことに気付き、すぐに中退した[9]。1970年2月にビル・スティーブンソンと結婚[10]。一緒にデラウェア大学に通うことを決め、英語を専攻した[9]。

それから数年してスティーブンソンはデラウェア州ニューアークのデラウェア大学近くに「ストーン・バルーン」をオープンした[10]。このバーは最も商業的に成功を収めた大学のバーの一つとなった[10]。十分なお金を稼ぐために地元の代理店のモデルを務めたりしたが、スティーブンソンとは次第に疎遠になっていった[9]。』

『その後にジルは大学に戻った。1975年3月に連邦上院議員ジョー・バイデンが広告に掲載されたジルの写真を見て一目惚れし、ジョーの弟のフランクは兄のために二人のブラインドデート(初対面相手とのデート)を設定した[6]。ジルは同年に文学士号を取得してデラウェア大学を卒業し[11]、高校の英語教師の道を歩み始めた[6][12]。その一方で、彼女はスティーブンソンとの大荒れの離婚訴訟を経験していた[9]。裁判では彼女が望んでいた「ストーン・バルーン」の利益の半分の分け前を受け取れていなかったとする判断が下され、1976年に終了した[9]。

1977年6月17日にバイデンとジルはニューヨークにある国際連合礼拝堂で結婚式をあげた[3][12][13]。バイデンの最初の妻と乳児の娘が自動車事故で死亡してから4年半の歳月が経過していた[3]。ジルは事故を生き延びたバイデンの幼い2人の息子であるボーとハンターの継母となることに躊躇し、バイデンが5度結婚を申し込んだ末にこれを受け入れた[14]。』

『妊娠中も高校教師を続け、1981年にウェストチェスター大学(英語版)(読解分野)の教育学修士を取得した[15]。同年に二人の間の唯一の子どもである娘のアシュリーが出生し、義理の息子のボーとハンターを含めた3人の子どもを育てるためにひとまず教職を離れた[16]。

その後に学校に復帰して(非英語話者向けの)英語教師・読解専門家の仕事と情緒障害の学生を指導する活動を再開した[6]。彼女は1980年代の5年間にロックフォードセンターの精神科病院で思春期プログラムの教育も担当した[3]。1987年に2つ目の学術修士をヴィラノヴァ大学(英語分野)で取得した[3]。バイデンは1988年アメリカ合衆国大統領選挙に民主党候補の一人として名乗りを上げた。この時にジルはもし自分がファーストレディになったとしても、情緒障害の子どもに教える仕事はこれまで通りに続けると述べている[17]。彼女は公立高校の教師を13年続けた[12]。

1993年から2008年まではデラウェア工科短期大学(英語版)で講師を務めた[18][19]。彼女は生徒に自信を植えつけることに重きを置き、英作文教育(英語版)やリメディアル教育を行った[18][20]。』

『乳がんと診断された4人の友人を持つジルは1993年にデラウェア州内の学校などに乳房の健康意識を向上させるためのプログラムを無償で提供する非営利団体「バイデン乳房健康イニシアチブ」を創設している[21]。組織は20年あまりで1万人以上の女子高生に乳がんの早期発見の重要性を強調する指導を行った[22]。2007年に低所得層の子どもたちに本を提供する「ブック・ベイビーズ」のプログラムに対する支援を行い[22]、アメリカ軍関係者とその家族を支援する「デラウェアブーツ・オン・ザ・グラウンド」でも非常に精力的に活動している[23]。週に5回、5マイル(約8km)の距離を走り、海兵隊マラソン(英語版)にも参加している[12]。

2007年1月、55歳の時にデラウェア大学で教育リーダーシップ(英語版)の教育学博士を取得した[3][22][24]。彼女の学位論文『Student retention at the community college: Meeting students’ needs』のコピーはオンライン上での購入が可能である[25]。』