〔兵頭二十八氏のサイトからの情報〕

 ※ 世界は、こういう物騒な話しで満ちている…。

『Thomas Newdick 記者による2021-1-18記事「The Story Of The Jet That Would Have Delivered South Africa’s Nuclear Bomb」。
   南アフリカは、自国内で原爆を完成し、そののち自国内でそれを廃棄した、唯一の国である。
 アパルトヘイト時代、南アは、ホーカーシドレー社の攻撃機「バッカニーア」を原爆運搬手段にしていた。

 サハラ砂漠以南のどこであれ、これで攻撃できた。
  ※南アは特例的にウラニウムリッチだったので濃縮原料を得るのに苦労しなかった。ウラン素材で原爆を仕上げたなら、実験も《駄目押し確認》程度で済む。他国にはこんな路線は不可能なのである。

 1970年代にまずウラン濃縮燃料による発電を民間主導で考え、そこから軍の核武装計画がスピンオフした。

 今ナミビアになっているところを南ア軍が占領していた。
 またアンゴラにはキューバ傭兵がソ連によって送り込まれていて、南アとの長期戦争状態にあった。
 ザンビアもスワポーの基地になってた。

 南アの核については今日でもまだハッキリしないことが多い。1979年の南極海における「ヴェラ」実爆実験の詳細もそうである。

 ハッキリしていることは、南アは1977年までに、広島型=ガンバレル式 の最初のウラン原爆を完成させた。

 その実爆実験をまず陸上でやろうと櫓を組んでいたとき、ソ連の衛星に嗅ぎ付けられ、米国が干渉してきた。
 最終的に、実戦使用できる量産原爆5発と、実験原爆装置1個が、製造された。

 いつでも使える、かなり洗練された原爆兵器としての最初の1発が仕上がったのが1982年である。6キロトンの威力であった。
 さいごの1発、1989年に製造中だったものは、政府が工程を中断させた。

 すべてガンバレル式であった。
 1985からは爆縮式(ただしコアは濃縮ウラン)も設計され始めていたのだが、実現しなかった。

 運搬手段としては、イスラエルから「ジェリコー2」地対地弾道ミサイルを買うオプションもあった。

 しかし南アの原爆はサイズが小さいので、バッカニーアからリリースする「滑空爆弾」に仕込むことも可能であった。バッカニーアはもともと英海軍の艦上攻撃機である。

 英国は1965から翌年にかけ、南アにバッカニーアを売った。1964には対南アの武器禁輸が始まっていたのだが。

 16機の「バッカニーアS50」は特注品で、南アの暑い陸上基地からの運用のためにいろいろ改造されていた。
 英国は言い訳を考えていた。ケープホーン周辺の商船航海の安全を守るための防御的な兵器である、と。
 しかし、対アンゴラ核爆撃用であることは状況的に隠せないので、英国は追加の14機の売却は断っている。
 バッカニーアの乗員の訓練は英本土で行なわれている。

 バッカニーアの消耗率は高く、1979時点で6機しかなくなっていたという。乗員10名が死亡している。

 南アが開発した滑空核爆弾は「H-2」または「ラプター1」といい、テレビ画像リモコン式だった。レンジは37マイル。データリンクポッドを吊るした友軍機が125マイル以内にいれば、その機に無線誘導をひきついでもらうこともできた。

 航空機からの重力落下式核爆弾の直接投下には専門の面倒な訓練が必要だが、滑空爆弾とするならば、他の通常弾頭兵装と同じ手順が応用できるので、余分な訓練の手間が省けて合理的だった。

 1982から86は、原爆の安全装置開発に注力された。ガンバレル式は原理的に、電子回路なしで起爆可能である。うっかり飛行機から落としてしまったようなときに、衝撃によって核爆発を起こしかねない、けっこう危ない方式なのだ。
  ※もしエノラゲイを撃墜していたら、墜落したところがグラウンドゼロになってたかもしれないのだな。

 滑空爆弾の弾頭にされた量産原爆5発は、出力が20キロトンだったという。

 1989にデクラーク大統領は、核放棄を決定した。
 アパルトヘイト撤廃はすでに動き出していたしソ連は崩壊寸前だ。南アが核武装していることは、その後の対西側外交の邪魔にしかならない。

 南アの核滑空爆弾を1998に洗練した通常弾頭型は、パキスタンとアルジェリアに輸出されている。「ラプター2」と称する。

 南アの技師たちは、パキスタンの核巡航ミサイルの開発も手伝ったらしい。』