中国共産党を救った鄧小平氏の旅 北京ダイアリー

中国共産党を救った鄧小平氏の旅 北京ダイアリー
中国総局長 高橋哲史
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM181XI0Y1A110C2000000

『かつて皇帝の住まいだった故宮に隣接する景山公園の北側には、胡同(フートン)と呼ばれる古い街並みが広がる。1992年1月17日、その入り組んだ狭い路地の先に建つひときわ目立つ邸宅から、1台の車が警察車両に先導されて出発した。

乗っていたのは当時87歳の鄧小平氏だ。中国誌の「南風窓」によると、車列はまず南に下り、天安門の前を東西に走る長安街を左に曲がった。

すぐに北京飯店が目に入る。鄧氏は84年5月、…

この記事は会員限定です。登録すると続きをお読みいただけます。

残り1317文字

初割ですべての記事が読み放題
今なら2カ月無料!

初割で申し込む
https://www.nikkei.com/promotion/?ak=https%3A%2F%2Fwww.nikkei.com%2Farticle%2FDGXZQOGN04AVW004012021000000&n_cid=DSPRM1AR08

無料登録する
https://www.nikkei.com/r123/?ak=https%3A%2F%2Fwww.nikkei.com%2Farticle%2FDGXZQOGN16C7X016122020000000&n_cid=DSPRM1AR08#free

ログインする
https://www.nikkei.com/login

・鄧氏は84年5月、この北京を代表する西洋風ホテルの題字を揮毫(きごう)した。改革開放が軌道に乗り、鄧氏の権威が絶頂にあったころだ。車列は鄧氏が書いた「北京飯店」の文字を横目に見ながら、北京駅へと向かった。

・鄧氏と家族を乗せた特別列車が出発したのは、一行が到着してすぐだ。翌朝、列車は湖北省武漢の武昌駅に着いた。「改革開放をやめれば、死への道があるのみだ」。鄧氏はプラットホームに降りるなり、出迎えた地元の幹部らに息巻いた。中国共産党の歴史を変えた「南巡講話」の始まりである。

・学生らの民主化運動を軍が鎮圧した89年6月の天安門事件をきっかけに、鄧氏が78年に始めた改革開放は厳しい批判にさらされていた。計画経済への回帰を訴える保守派が、猛烈な巻き返しに出たのだ。

・このままでは改革開放が頓挫する――。危機感を覚えた鄧氏が、市場経済化の大号令をかけるために打って出たのが南巡講話だった。「ゆっくりと進むのは止まっているのに等しい。いや、むしろ後退だ」。広東省の深圳や珠海で改革開放の加速を訴えて回った鄧氏の旅は、92年2月21日まで1カ月に及んだ。

・圧倒的なカリスマだった鄧氏の指示にはだれも逆らえない。中国共産党は92年秋の党大会で「社会主義市場経済」を採択した。市場経済への全面的な移行だ。

・これを機に、天安門事件で低迷していた中国経済は一気に息を吹き返す。年平均10%を超す高成長の軌道に戻り、2001年には世界貿易機関(WTO)への加盟を実現した。

・鄧氏が南巡講話に踏み出していなければ、歴史は別の道をたどっていただろう。経済が破綻し、共産党の統治は終わりを迎えていたかもしれない。鄧氏は改革開放で文化大革命がもたらした混乱を収めたのに続き、南巡講話で中国共産党を崩壊の危機から救った。

・強大になった中国はいまや、超大国の米国を追い抜き、追い越そうとしている。

・南巡講話の開始からちょうど29年たった18日、国家統計局が発表した20年の国内総生産(GDP)は実質で前年比2.3%増だった。世界経済がコロナ危機の泥沼から抜け出せないなか、中国経済だけがいち早くプラス成長を実現し、正常化への歩みを速める。

・習近平(シー・ジンピン)総書記(国家主席)を頂点とする中国共産党の統治は盤石にみえる。人びとの暮らしは鄧氏の時代と比べものにならないほど豊かになった。

・しかし、言論統制がどんどん強まり、政治的な自由は改革開放の初期よりはるかに狭くなった。これが鄧氏の思い描いた中国の姿だろうか。疑問符は消えない。

高橋哲史が執筆するニューズレターを隔週で配信しています。ワシントン支局長の菅野幹雄と「往復書簡」の形で、米中の「今」と「これから」を考えます。登録はこちら。
https://regist.nikkei.com/ds/setup/briefing.do?me=B001&n_cid=BREFT032

高橋哲史 (たかはし・てつし)
1993年日本経済新聞社入社。返還直前の香港での2年間の駐在を含め、中華圏での取材は10年に及ぶ。2017年から2度目の北京駐在で、現在は中国総局長として変わりゆく中国の姿の取材を続けている。