大義なき中東の厳しい未来 米大統領選後の新秩序は

大義なき中東の厳しい未来 米大統領選後の新秩序は
編集委員 松尾博文
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65384680T21C20A0TCR000/

『イスラエルとの国交樹立が明らかになった8月13日、アラブ首長国連邦(UAE)の首都アブダビはさめていた。同国に駐在する同僚によれば、人々は7月に日本のH2Aロケットで打ち上げた火星探査機のほうに熱狂した。

中東を見渡しても、UAEの決断を支持こそすれ、怒りのうねりは起きなかった。そこにはパレスチナの解放を掲げ、4度にわたるイスラエルとの戦争を支えた「アラブの大義」はなかった。アラブをつなぎとめた連帯意識はいつから色あせたのだろう。

1990年8月2日、イラクのフセイン政権が突如、隣国クウェートに侵攻した。同国に暮らす多数の日本人は国外に逃れる間もなく、家族と日本大使館に避難した。その一人、出光興産の駐在員だった田代安彦さんは大使館の地下で意外な人物に会った。

旧知の米国外交官である。中心部にある米国大使館はイラク軍に囲まれて近づけず、日本大使館に避難していた。田代さんは侵攻の数日前に彼に会い、「侵攻はない」と聞いたばかりだった。

米国すら見誤った湾岸戦争は二重の亀裂を生んだ。ひとつはアラブの同胞を、もう一つは両国が創設以来の構成国だった石油輸出国機構(OPEC)を引き裂いた。

イラクは88年まで8年間、イスラム革命から間もないイランと戦った。革命の波及を防ぐ防波堤を自任するフセイン大統領を君主制のアラブ産油国は支援した。これによって軍事大国化したイラクが今度は自分たちに牙をむいた。

91年1月、米国を中心とする多国籍軍が参戦し湾岸戦争が始まると、やって来た道を逃げ戻るイラク軍に米軍が空から攻撃を浴びせかけた。後には延々と続く黒焦げの軍事車両が残った。

戦争終結からまもなく、この道を通り、クウェートからイラクに向かう人の列が現れた。湾岸産油国で働くパレスチナ人である。

クウェートからの撤退を迫る国際社会に対し、フセイン氏はイスラエルにパレスチナ占領地から撤退を求めないのは不公平だと主張、パレスチナ人は喝采した。

クウェートで働くパレスチナ人は当時、30万~40万人。フセイン氏を支持したために居づらくなった彼らは家財道具を車に積み、1台、また1台と出国していった。

イスラエルと直接、対峙するエジプトやシリアなどの前線国を、後方の湾岸産油国が石油で支える。OPECの価格戦略はそのための武器だ。これが産油国の大義の示し方だった。

湾岸危機から30年、サウジアラビアなど湾岸産油国が力をつけ、アラブ政治の重心はエジプトなどの地中海沿岸国からペルシャ湾に移った。この間に「イスラエルとの戦争を知らない世代が増え、パレスチナ問題の優先順位は下がった」と外交筋は言う。

気付かなかったのはパレスチナ人だけかもしれない。「彼らに教えてやらなければならない」。サウジ中枢の実力者から辛辣な言葉を直接、聞いたことがある。

米国は湾岸戦争だけですまなかった。その後もアフガニスタン、イラクと、戦争の泥沼にはまり込んだ米政府は中東から足抜けを急ぐ。間近に迫った米大統領選挙で、中東の米軍縮小・撤収はトランプ、バイデン両氏がともに掲げる数少ない一致点だ。

ほかのアプローチは両氏で大きく違う。ただしどちらが勝っても、中東に待ち受ける未来が厳しい点も実は変わらない。

トランプ氏が再選を果たせばイランとの緊張は続き、イスラエルやサウジなど反イラン陣営は結束して圧力を強めるだろう。締め付けによってイランが揺らげば中東は一気に不安定化する。

一方、オバマ政権の副大統領だったバイデン氏は、トランプ氏が離脱したイラン核合意への復帰を唱える。イランの核開発の暴走に一定の歯止めを期待できるが、制裁解除による国際社会への復帰は同国の台頭を再び許すことになりかねない。

バイデン氏は地球温暖化対策の道筋を定めた「パリ協定」への復帰も公約する。2035年までに発電所からの二酸化炭素(CO2)排出を実質ゼロにすると主張するなど、温暖化対策の強化を掲げる。米国のエネルギー・環境政策のグリーン化は、石油需要の伸びを一段と鈍らせる。

アラブの産油国にとって、イランの力の回復と脱炭素の加速は望まないシナリオだ。技術立国であるイスラエルへの接近は対イランだけでなく、忍び寄るポスト石油の時代に備えた選択でもある。

テクノロジーとオイルマネーは悪くない組み合わせだ。ここから何が生まれるのか。石油の大半を中東に頼る日本は目を凝らす必要がある。中東からあふれ出るのは石油だけと考えていると、新秩序から取り残されるだろう。

中東の転換点になった道の話に戻そう。36歳で爆死したパレスチナの作家、ガッサーン・カナファーニーの代表作「太陽の男たち」は稼ぎ先を求め、給水車のタンクに隠れてイラクからクウェートに密入国を試みるパレスチナ人の話だ。照りつける太陽の下、タンク内で耐えられる時間はわずか。運転手が国境での手続きにもたついたために男たちは力尽きる。

パレスチナ人は難民を含め1千万人。地殻変動から置き去りにされた閉塞感は、彼らをどこに向かわせるだろう。ひずみと分断を残して突き進む中東の新秩序が危うさを抱えることも確かである。』