菅義偉氏、たたき上げの「令和おじさん」

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO63801400U0A910C2M10600/

『秋田の雪深い地方から初めての自民党総裁が誕生した。1948年、秋田県のいまの湯沢市で生まれた。実家はイチゴ農家で両親は早朝から畑で働き、自分が起床するころに家に帰ってきたという。野球や渓流釣りをして過ごす普通の青年だった。

地元の中学は同級生約120人のうち、半数が東京に集団就職した。残りの約60人のうち半数は農家を継いだ。長男として生まれ、いつかは農家を継がなければいけないとの思いで過ごしたという。

高校時代の菅氏(中央)
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野球に取り組んだ中学時代(右上)

厳しい冬の間はバスが高校近くまで走らないため、下宿生活だった。春に雪解けを迎えるまでが長く感じたと振り返る。持ち前の忍耐強さは厳しい環境で鍛えられた。

高校卒業後、東京に出たものの大学に通うお金はなかった。板橋区の段ボール工場で働きながら学費を稼ぎ、当時、授業料が安いとの理由で法政大を選ぶ。ガードマンや日本劇場の食堂でのカレーの盛り付けなどのアルバイトで生活費を稼いだ。空手部に入ったのは心身を鍛えようと思ったからだ。

法政大学時代は空手で心身を鍛えた(右端)

卒業後、秋田に帰るかどうか悩んだ末に東京で就職した。働きながら「世の中を動かしているのは政治ではないか」と感じ、政治を志すようになった。まず大学の就職課を訪ね、その後たどり着いたのが衆院議員だった小此木彦三郎氏だった。

以降、小此木氏の下で11年間、秘書を務める。秘書のなかでも年齢は若く、毎朝のように小此木氏の自宅で家族とともに食事をした。小此木氏が通産相(現経済産業相)に就いたときは秘書官にも起用された。

次の転機は38歳のころ。自民党の横浜市議の勇退を機に、87年の横浜市議会議員選挙に党内の反発に遭いながら出馬して初当選し、2期8年務めた。

横浜市議に初当選した菅氏(左)

衆院初当選は遅咲きの47歳だった。年齢に加え、非世襲ということもあり「自分は閣僚にもなれるかどうかだ」と感じていたそうだ。

国会議員になって巡り合ったのが、今でも「政治の師」と仰ぐ梶山静六氏だ。

梶山氏が出馬した98年の自民党総裁選。当選1回の新人ながら、所属する平成研究会(現竹下派)会長の小渕恵三氏でなく梶山氏を支持し、派閥を飛び出した。

梶山氏は敗れたものの事前の予想を大きく覆す102票を獲得し、永田町で「菅義偉」の名前が知れ渡った。

梶山氏から説かれた「もう派閥の時代ではない。同じ考えの人間が結集して政治を動かすんだ」との言葉を実行に移したのが2006年の総裁選だった。脱派閥を掲げた「再チャレンジ支援議員連盟」を立ち上げ、安倍晋三氏の勝利に貢献した。

政権奪還をかけた野党時代の12年の総裁選でも麻生太郎氏や甘利明氏らと連携し、安倍氏の首相復帰の原動力になる。

12年12月の第2次安倍政権の発足で官房長官に就き、麻生、甘利両氏らとともに「安倍1強」の基盤をつくった。在任期間は7年8カ月を超えて歴代最長だ。

危機管理担当として在任中は一度も横浜の自宅で泊まらなかった。首相官邸近くの議員宿舎では携帯電話を枕元に置いたまま休み、北朝鮮がミサイルを発射した際は、未明や早朝でもすぐに官邸に駆けつけて記者会見を開いた。

首脳外交で世界を飛び回っていた安倍首相を内政面で支えた。

法人実効税率の引き下げといった税制改正に加え、縦割りの打破に力を入れ、インバウンド(訪日外国人)需要の拡大や携帯電話料金の引き下げといった政策を主導してきた。災害対策としての既存ダムの活用拡大など、生活目線に立った政策が目立つ。

官房長官として新元号「令和」を公表する(19年4月1日、首相官邸)

19年4月の新元号「令和」の公表で一躍、知名度を上げた。「令和おじさん」の愛称で呼ばれ、パンケーキ好きの甘党といった人柄も知られるようになった。

衆院議員になってもうすぐ24年。総裁選への出馬は初めてだった。

「地縁血縁のないゼロからのスタートだった。私のような普通の人間でも努力をすれば首相を目指すことができる。これが日本の民主主義だ」。20年9月8日の総裁選の立会演説会での一節に、これまでの政治生活への思いがこもっていた。』