金融危機とデフレの発生

金融危機とデフレの発生
学び×平成の経済史(2)小峰隆夫・大正大学教授
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO62966740U0A820C2I00000/

『第2回は1990年代後半の時期を扱う。バブルの後遺症が不良債権、金融危機、デフレとなって牙をむき始めていたのだが、多くの人はその深刻さに気が付いていなかった。

■遅れた不良債権への取り組み
バブルが崩壊すれば、必然的にバランスシート調整問題が発生し、金融機関には不良債権がたまる。この不良債権の存在は、金融機関の体力を低下させ、経済の回復を阻害する。したがって、税金を使ってでもいいから早めに処分してしまった方がいい。しかしこれは後知恵であり、当時はこうした点が全く分かっていなかった。そのことを示す例を二つ挙げよう。

一つはやや時間が遡るが、92年夏の宮沢構想の挫折だ。株価の下落を危機的にとらえていた宮沢喜一総理は、金融機関の不良債権を処理するために公的資金を投入すべきだと考える。ところが誰もこれに賛同しない。政治家は「税金で銀行を助けたりしたら、国民から大批判を浴びるだろう」と逃げ腰であり、当の金融機関も、税金を投入すれば経営陣の責任が問われ、「日本の金融機関はそんなにひどい状況なのか」と思われてしまうと乗り気ではなかった。この時思い切って不良債権を処理していたら、その後の金融危機もなかっただろうし、公的資金の投入金額そのものもずっと少なくて済んだはずだ。

もう一つは、95年の「住専問題」だ。住専(住宅金融専門会社)は、70年代以降、大手金融機関が母体となって設立された住宅ローン専門会社である。当初はうまく機能していたのだが、銀行本体が住宅ローンに力を入れ始めたために、行き場を失った住専は、住宅開発、不動産向け融資に向かい始めた。これがバブルの崩壊で不良債権化し、住専の経営は急速に悪化した。結局、母体行が債権を放棄することによって処理することになるのだが、農林系金融機関がどうしても負担できないとされた6850億円は公的資金(つまり税金)を投入することになった。この公的資金投入は各方面から強い批判を浴びた。要は、銀行と大蔵省(現財務省)の責任で起きたことに税金を使うのはけしからんという理屈である。この6850億円という金額は、その後の公的資金の投入が数十兆円に上ったことを考えるとまったく小さなものだったのだが、この時の騒ぎは、政府、政治家に大きなトラウマとして残り、97年秋に金融危機が起きるまで、公的資金の投入はほとんどタブーとなった。

■金融危機の発生
金融機関は相互信用で成立しているので、その信頼関係が崩れると取り付け騒ぎが起きたり、資金繰りに窮した金融機関が立ち行かなくなったりする。教科書には書いてあるが、まさか日本で本当に金融危機が発生すると予想した人は少なかった。

きっかけはアジア通貨危機だった。タイから始まった通貨危機(通貨の大幅な下落)は、またたく間に周辺諸国に波及していった。このアジア通貨危機によって、日本の株価は急落し、輸出の減退で景気も悪化した。ただでさえ大量の不良債権を抱えていた金融機関の財務状況は急速に悪化した。97年11月、ついに準大手証券会社の三洋証券が破綻した。このため(金融機関が資金を融通し合う)コール市場から三洋証券が調達していた資金の一部(わずか10億円)がデフォルト(債務不履行)となった。疑心暗鬼となったコール市場は大混乱となり、これが次の北海道拓殖銀行の破綻を招く。そして四大証券会社の一つであった山一証券も破綻した。この廃業を発表する記者会見で最後の社長となった野沢正平氏は、号泣しながら「社員は悪くない。善良な社員が再就職できるようにこの場を借りてお願いします」と訴えた。この涙の訴えの場面は、その後当時の金融危機を象徴する映像として、繰り返し放送されることになる。

■デフレ議論前史
平成時代を通して日本経済の頭痛の種となったのが、デフレ(物価の持続的な下落)問題である。これも後知恵で考えれば、デフレの進行は、名目賃金の上昇を抑制し、実質金利を引き上げる。インフレも良くないが、デフレも良くない。しかし、当時このことに気がついていた人は少なかった。気が付くどころか、当初は「物価の下落は望ましい」と考えていたほどだ。その例を二つ挙げよう。

一つは、内外価格差是正論だ。80年代後半の円高の進展により、日本の物価は(ドルベースでみると)海外に比べて相対的に高くなった。この内外価格差を是正すれば、国民生活も豊かになるという考えが広がり、これが90年代前半の物価政策の大きな目標となったのである。もう一つは、94年4月に成立した羽田内閣のもとでの「実質所得倍増計画」である。羽田孜総理は、これからは高成長を求めるのではなく、物価を下げることを目標にすべきだと考えたのである。ただし、これは官僚サイドの反対もあって、現実の政策には結びつかなかった。

いずれの政策も、日本の物価が下がれば、消費者の実質所得が高まり、国民生活は豊かになると考えた。しかし、物価が下がれば賃金をはじめとした名目所得も減るのだから、これは全く無理筋の政策だった。その無理筋の政策は、デフレへの取り組みを遅らせることにより、逆に国民生活をより厳しいものとしたのである。

■橋本内閣の構造改革への挑戦
96年1月に発足した橋本内閣は、いくつかの思い切った構造改革に取り組んだ。そのうちのあるものは現在に至るまで継続しており、あるものは道半ばで挫折している。

2001年、省庁再編で誕生した国土交通省の看板を披露する扇千景国土交通相ら

改革の枠組みが持続しているものとしては、省庁再編がある。橋本内閣は、99年に大規模な中央省庁の再編を行った(発足は2001年1月)。それまでの1府22省庁は、1府12省庁に再編され、内閣機能の強化が図られた。その後、小泉内閣の下で大活躍する経済財政諮問会議が登場したのもこの時である。

途中で挫折したものの代表が財政構造改革である。橋本龍太郎総理は財政再建に執念を燃やし、97年に「財政構造改革法」を成立させた。これは、具体的な財政改革の措置を法律に書き込む(例えば、「05年度までに財政赤字のGDP比を3%以下にする」)というもので、橋本総理の並々ならぬ意気込みが感じられる。しかし、日本の金融危機を経て財政再建ムードは急速に冷え込み、98年に後を継いだ小渕恵三総理は財政拡張路線に転じ、財政構造改革の歩みはとん挫することとなった。

■今に生きる教訓
この時代の経験からも我々は重要な教訓を得ることができる。

第1は、第1回でも述べたことだが、我々の経済認識にはどうしても長いタイムラグがある。不良債権、デフレ、金融危機、いずれも事態が深刻化してからでないと問題を認識できなかった。我々は、現在直面している事態の中に大きな問題の芽が潜んでいないか、常に注意する必要がありそうだ。

第2は、異論を排除することの危険性だ。不良債権への公的資金の投入は、金融危機が発生するまで全く議論の対象にならなかったし、インフレ時代を経験した人々にとっては、物価の下落が問題だという意識は生まれにくかった。

第3は、財政再建の難しさだ。現在の財政を見ていると、政治は常に歳出増・財政赤字拡大に向かっているように見えるが決してそうではない。平成時代の総理のうち、橋本、小泉純一郎、野田佳彦総理は財政再建に真剣に取り組んでいる。それでも現在に至るまで財政再建は進んでいない。我々は改めてその難しさを認識しておく必要があるだろう。

=つづく』