「金正恩が与正に権力の一部を委譲」報道の真相

「金正恩が与正に権力の一部を委譲」報道の真相、実情は独裁体制崩壊で兄も妹も共倒れ
国際 韓国・北朝鮮 2020年8月28日掲載
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/08280600/?all=1&page=1

『朝鮮日報も「健康異常説」に言及
 韓国の情報機関、国家情報院(国情院)は20日、国会で「金正恩[キム・ジョンウン]・朝鮮労働党委員長(36)が、国政負担を軽減するため、妹の金与正[キム・ヨジョン]・党第1副部長(32)ら側近に一部権限を委譲した」と報告した。

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 韓国の保守系大手紙の朝鮮日報は、翌21日の紙面で詳報した。まず「金正恩委員長、中国の集団指導を真似?」という解説記事を掲載、次に「金与正に権限を一部委任…後継者に決まったわけではない」と与正の後継に慎重な見方を示し、動揺する韓国世論に釘を指した。

 その上で社説「『金与正氏が一部委任統治』、北に何が起きているのか」では、《金正恩氏はその姿を見せなくなり、「健康異常説」も広がっている》と、正恩が国家運営に支障を来すほど、健康を害している可能性にも触れた。

 文在寅[ムン・ジェイン(67)]政権は健康不安説を常に一蹴してきた。それでもなお、正恩の健康が不安視されていることを浮き彫りにしている。

 更に北朝鮮ウォッチャーの関心を集めたのは、20日付けの北朝鮮の党機関紙・労働新聞の記事だった。

 金正恩が経済政策の失敗を認め、父の金正日[キム・ジョンイル](1942〜2011)が1度も開催しなかった労働党大会を来年1月に再開催すると宣言したのだ。朝鮮日報の社説は《今、北朝鮮では何か問題が生じているのだろうか》と結んでいる。

金与正も消える
 北朝鮮情勢に詳しい東京通信大学の重村智計教授に取材すると、「国情院の報告は、もちろんデタラメではありませんが、慎重な取り扱いが必要です」と指摘する。

「国情院は8月20日に国会の非公開委員会で報告、その出席者である野党議員がメディアに内容を明かしました。韓国政府が直接、国民やメディアに発表したものではありません。文政権は左派で、北朝鮮との融和を重要な外交課題に掲げています。その交渉相手である金正恩氏の健康状態が疑われるとなると、南北融和どころではありません」

 国情院は「金正恩のストレスが原因」という可能性にまで触れながら、健康問題は言及を避けた。

「文政権が健康不安説を否定していることから、国情院の分析は曖昧なものに終わりました。まさに奥歯に物が挟まったような表現になってしまったのです」(同)

 重村教授は、「金正恩氏の健康状態に強い疑いが持たれているのは事実です。その一方で、金与正氏の姿も北のメディアから消えました」と指摘する。

「金正恩氏の行動なら、北のメディアは写真と共に報じています。しかし健康不安説が報じられて以来、喋っている動画までは配信されましたが、肝心の肉声は未だに報道されていません。おまけに最近の写真については『威厳が感じられない』という指摘もあります。そのため今もなお、影武者説が燻っています」

消えた金与正
 一方の金与正だが、デイリー新潮は7月1日、「北朝鮮『韓国への軍事行動保留』報道の読み方、“金与正軟禁”もある軍クーデター説」との記事を掲載した。

 与正は6月に開城の南北共同連絡事務所を爆破、後継者争いの有力候補として、今も取り沙汰されている。

 だが、爆破後に与正が軍部への“命令”に挑戦したのだが、軍幹部が“造反”したという事実が判明した。これは一種のクーデターであり、与正が“放逐”されたのではないか、と報じた記事だった。

「金与正氏に権力が委譲されると国情院は報告したとされていますが、にわかには信じられません。彼女の肩書きは依然として『党第1副部長』です。これは、さほどの高位ではありません。北朝鮮では序列が全てです。もし本気で金正恩氏が妹に一部の権力を委譲するならば、異例の出世をさせ、相応しい肩書を与える必要があります。しかし今のところ、そうした動きはありません」(同・重村教授)

 労働新聞の紙面からも、金与正が軽視されていることが読み取れるという。労働新聞は幹部クラスの言動なら必ず1面で報じるが、ここに与正は登場しない。彼女の動向が報じられる場合は、必ず2面以降。おまけに最近は、紙面に写真が掲載されることもなくなったという。

大統領と国情院
「国情院の立場を慮れば、現政権が左派ということもあって、正確な情報を公開するのは難しい。特に与正氏は肩書の変更がない上、最近になって北のメディアに写真掲載を止めさせた可能性があります。『与正氏に権限委譲』は誤報と言っていいレベルですが、政権と水面下で様々な綱引きが行われ、役人らしく妥協したのでしょう」(同・重村教授)

 金正恩がナンバー1、金与正がナンバー2と見なしている関係者や韓国国民は、決して少なくない。

 文政権からすると、国情院が「正恩も与正も駄目です」と公式に認めてしまうと、対北政策を根本から改める必要が生じてしまう。左派政権としては大きなダメージを受ける可能性があるだろう。

「国情院は『金正恩氏の独裁体制が崩れ、集団指導体制に移るのだとしたら、それは正恩氏の健康状態が原因と見て間違いない』という分析結果を示すことはできました。北に対して『我々は真実を知っているぞ』と圧力をかけたわけです。その代わりに、与正の誤報については眼をつぶることで妥協したのではないでしょうか。」(同)

独裁者を引退!?
 重村教授によると、少なからぬ北朝鮮ウォッチャーが“異変”を感じ取ったのは、遅くとも今年5月頃だったという。

「その頃から北のメディアが、『金正恩委員長が指導された』という表現を使わなくなったのです。例えば朝鮮中央放送は6月23日『金正恩同志が司会なされた』、8月6日に『(会議に)参加し、司会された』と報じました。いずれも他の政務局委員に使われるのと同じ表現ですので、普通であれば金正恩氏の権威を貶める大問題です。それが堂々と報道され、お咎めも全く聞こえてこないため、我々専門家の間から『あり得ない』という声が上がったのです」(同・重村教授)

 北朝鮮の迷走は根が深いようだ。朝鮮日報の日本語電子版は8月18日、「独裁国家・北朝鮮が突如『君主独裁に反対』」との記事を配信した。

 内容は北朝鮮が発行する雑誌「社会科学」1月号に、中国の清王朝で書かれた独裁制批判の文書を再評価する論文が掲載されたというものだ。

 世界有数の独裁国家である北朝鮮が、独裁を否定する論文の掲載を許すはずがない。朝鮮日報は《金正恩国務委員長を独裁者ではない「愛民の指導者」と認識させる意図があるとみられる》と推測したが、やはり金正恩の権力基盤が揺らいでいることを伝える記事と見たほうがよさそうだ。

草案の異常
 更に重村教授ら専門家を驚愕させたのが、党大会の開催を伝えた、朝鮮中央放送の8月20日付の報道だ。

 この記事では、まず《朝鮮労働党委員長であるわが党と国家、武力の最高領導者金正恩同志が全員会議を指導した》と「指導」の文言が使われている。

 指導を使ったり、使わなかったり、迷走しているようなのだが、それを踏まえて重要なポイントを引用しよう。

《敬愛する最高領導者同志が、栄えあるわが党の戦闘的行路にもう一つの特記すべき出来事として刻まれる党第8回大会の招集を決定する全員会議決定書草案を読み上げるや、全ての参加者は、暴風のような歓呼と熱烈な拍手によって、上程された議題について全面的に支持、賛同した》

 重村教授は「独裁者が草案を読むという表現は矛盾していると言わざるを得ません」と苦笑する。

「北朝鮮は、その国家システムの要として独裁者を求めます。国是として『唯一指導体制』を掲げ、独裁者が絶対的に統治し、国民は唯々諾々と従うことが大前提なのです。もし金正恩氏が党大会を開きたいなら、『招集せよ』と命じれば、それで終わりです。ところが朝鮮中央放送は、金正恩氏が《草案を読み上げ》たと伝えたのです。独裁者が草案で誰に提案するというのでしょうか。こうなると、形容矛盾と言っていいでしょう」

「草案」の解釈
 念のために「草案」を広辞苑第七版(岩波書店)で引くと、《合議して決めるために、まず作られた案》とある。まさしく草案とは民主的な意思決定プロセスを象徴したような単語なのだ。重村教授が言う。

「草案という単語から2つの可能性が考えられます。金正恩氏は独裁者だったことを反省し、『今後は民主国家に生まれ変わる』と宣言したという解釈が1つです。2つ目は、正恩氏の健康状態は意思疎通が難しいほど悪化しており、党幹部が合議で話し合う必要が生じた。そうした状況を報じないわけにもいかないが、正恩氏の健康問題に触れるのは不可能。苦肉の策として、草案という言葉を選んだという可能性です。どちらが真実に近いか、前者があり得ないことは言うまでもありません」

 先にデイリー新潮の記事「北朝鮮『韓国への軍事行動保留』報道の読み方、“金与正軟禁”もある軍クーデター説」をご紹介したが、このクーデターの中心人物と目されているのが、李炳鉄(誕生日不詳)だ。1948年に生まれ、主に朝鮮人民軍の空軍を中心としてキャリアを重ねた。

 16年の弾道ミサイルの発射実験に立ち会い、成功すると金正恩と抱きあったことから注目を集めた。

中国の危機感
 その李炳鉄が8月の党中央委員会政治局第7期第16回会議で、党中央委員会政治局常務委員に任命された。異例の出世を果たしたのは金与正ではなく、李炳鉄だったということになる。

「かつて共産・社会主義国家を標榜した東側諸国は、ソ連を筆頭に、党は軍より優位に立っていました。北朝鮮も建前では金一族が軍を支配していることになっていました。ところが李炳鉄氏は軍人でありながら、党中央委員会という政治の世界でも委員として抜擢されたわけです。建前ではなく、本当に軍人が序列としても党幹部に匹敵する扱いを受けたというわけで、これこそ異例中の異例と形容すべき人事なのです」(同・重村教授)

 実は北朝鮮の“迷走”を中国が危機感を持ってウォッチしている節があるという。今年8月、中国の楊潔●[よう・けつち]共産党政治局員(70)が韓国の釜山を訪問し、韓国の徐薫[ソ・フン]国家安保室長(65)と会談した。実は、これが通常ならあり得ない会談だったという。(●=「篪」環境依存文字:「簾」の广を厂に、兼を虎に)。

「中国の場合、外交トップは揚政治局員で、王毅(おう・き)外相(66)はその下という位置づけです。そんな大物が韓国を訪問するのに、ソウルで文大統領と面会しないということがおかしいわけです。更に揚局員は韓国の前に、カモフラージュでシンガポールを訪れています。ついでに韓国に立ち寄ったことにし、“重要な会談ではありませんよ”と言わんばかりでした。なぜこんなことをしたのか、中国は北朝鮮の異変を憂慮し、揚局員が『万が一、軍事クーデターが起きても、韓国は軍を動かすな』と韓国政府に釘を刺す必要があったからです」(同)

軍はどう動くか?
 もし、そんな会談を堂々とソウルで文大統領を相手に行ってしまうと、アメリカと北朝鮮が猛反発するのは火を見るより明らかだ。それを避けるため、シンガポール経由で釜山に入ったのではないかというのだ。

 現在の北朝鮮はどんな状況なのか、重村教授が“日本のオーナー企業”を例に分かりやすく解説してくれた。

「金一族というオーナー家の若社長が病に倒れてしまった。死去すればさすがに後継者を発表しなくてはなりません。そうでないのは『彼こそ正恩氏の跡継ぎだ』という候補者がいないのと、金正恩氏が生存しているということだと思います。結局、オーナー家は次期社長を決められず、ベテランがひしめく役員会に頼らざるを得ない。一時期は若社長の妹が『私が代理を務めます』と頑張ったのですが、役員会に放逐された。こんな状況だと考えられます」

 正恩の父親である金正日は「先軍政治」を標榜して軍部を立てたが、なぜか息子の正恩は党の優位性を復活させようと尽力したものの、自ら指揮を執れない健康状態になってしまった。

「これまで金一族と軍は文字通り呉越同舟の関係で、互いに利害が相反することがあっても、船が沈没しては元も子もないと共同戦線を張ってきました。しかしながら今後の北朝鮮の動向を分析する際は、軍部がクーデターを起こすシナリオも否定せず、可能性の1つとして考えたほうがよいでしょう」(同・重村教授)』