日本の貨物船が重油漏れ モーリシャスが緊急事態宣言

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO62469940Y0A800C2000000/

『インド洋の島国モーリシャス南東部の沖合を航行していた大型貨物船が7月25日夜(現地時間)に浅瀬で座礁し、燃料の重油が大量に流出しているのが6日朝に確認された。貨物船を所有する長鋪汽船(岡山県)の広報担当者が明らかにした。運航は商船三井が担っていた。

モーリシャス政府は7日、サンゴ礁などが被害を受け危機的な状況にあるとして環境上の緊急事態を宣言。貨物船を現場から移動させるためフランス政府に支援を要請した。

サンゴ礁がある浅瀬で傾いた船体から重油が漏れ、広範囲を汚染した。沿岸部には国際的に重要な湿地を保全するラムサール条約に指定された区域もある。

商船三井によると、事故を起こしたのは貨物船「WAKASHIO」で全長約300メートル。中国からシンガポール経由でブラジル方面に向かう途中だった。同社はホームページに「現場海域・地域に甚大な影響を及ぼしている」との文書を掲載した。

長鋪汽船の広報担当者によると、積み荷はなかった。乗組員20人は全員避難して無事だったという。

現地からの報道によると、重油は海岸にも流れ着き、モーリシャス政府は海岸に近づかないよう住民に呼び掛けた。

モーリシャスは海や山など美しい自然が豊富で「インド洋の貴婦人」と称され、外国人観光客に人気がある。〔共同〕』

モーリシャス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%B9

『歴史
詳細は「モーリシャスの歴史(英語版)」を参照
この付近に島々が点在していることは、10世紀以前からアラブ人航海者達に知られていた。15世紀にはインド系とインドネシア・マレー系がやって来た。1505年にヨーロッパ系としてはポルトガル人が初めて到達した。

オランダ領モーリシャス
詳細は「en:Second Dutch Expedition to Indonesia」および「オランダ領モーリシャス」を参照
1638年にオランダがインド航路の補給地として植民を開始した。オラニエ公マウリッツ(マウリティウスを英語読みでモーリシャス)の名にちなんでこの島を命名した。この植民地統治によって、後々主力産品となってゆくサトウキビの移入や、農園の労働力としての奴隷移入などが行わた。また開発によって、固有種であったドードーが絶滅したのもこの時代である[2]。しかし植民地経営は上手くゆかず、1710年にオランダはモーリシャスから完全に撤退した[3]。

フランス領フランス島
詳細は「フランス領フランス島」を参照
オランダがモーリシャスから撤退すると、近隣のレユニオン島を植民地化していたフランスがさっそく再植民を計画し、1715年にモーリシャスを占領して、フランス島と名付けた。1735年にはベルトラン=フランソワ・マエ・ド・ラ・ブルドネ総督が就任し、ポートルイス市の建設や各種開発を行ってモーリシャスの基盤を作った。この時期のモーリシャスの経済の基盤はサトウキビのプランテーションであり、その労働力のために主にアフリカから多くの奴隷が移入された[4]。

イギリス領モーリシャス
詳細は「イギリス領モーリシャス」を参照

グランド・ポートの戦い(英語版)(1810年)

現在使われていない歴史的な旗?イギリス領モーリシャスの旗(1906年–1923年)

1810年にイギリスに占領され、1814年には正式にイギリス領となり、島名は旧名のモーリシャスに戻された。しかしイギリスはモーリシャスの統治体制に手をつけず、本国からの移住も行われなかったので、島の支配階級であったフランス人大農園主はそのまま島に残り、言語的にも英語よりフランス語が主に話される状況は続いた。1835年にはイギリス議会によって可決された奴隷解放が実行に移され、それまで農園などで働いていた奴隷たちは自由を得た。この奴隷解放によって不足した労働力を補充するために、同年にはインドからの移民の導入が開始され、1861年にはインド人はモーリシャスで最も多い民族となっていた。またこの時期にはモーリシャスのサトウキビプランテーションおよび製糖業が大いに発展した[5]。

1831年には統治評議会が設けられ、評議員の半分は政府の行政官、半分は総督が有力民間人を指名した。1886年には財産による制限選挙制が導入され、27人の議員のうち10人が選挙により選出されるようになったが、これらの議員は主にフランス系が占め、クレオールは少数にとどまっていた。インド人系が議員に選出されるのは1926年になってからのことだった。選挙制は徐々に条件が緩和されていき、1948年には財産制限の撤廃と婦人参政権の導入によって大幅に選挙権が拡大され、1958年には完全普通選挙と「最良の敗者」制度が導入された。

イギリスの植民地時代は、モーリシャス島から北東へ約2000 km先にあるチャゴス諸島と併せて統治されていたが、独立直前の1965年11月に分離され、チャゴス諸島の住人約1800人はモーリシャス島へ強制移住させられた。』

モーリシャス共和国(Republic of Mauritius)
基礎データ
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/mauritius/data.html