生産性を上げられるのは「そうせざるをえなくなった人だけ」

 ※ この人のこのブログ、ほぼ毎日チェックしているのだが、ここんところ「当たり」(あくまで、オレにとってのな…)が無いように感じていた…。
 これは、久々にちょっと感心したんで、紹介しておく…。

『「多くの人が電車の中でスマホゲームに興じているのは、ゲームが面白いからというよりは、通勤時間内の生産性を上げる、より有効な方法が他にないから」
これはちきりんさんの”自分の時間を取り戻そう”という本に出てくるフレーズなのだが、そういう視点でみたことがなかっただけに、かなり感心してしまった。

正直、本当にずっと長いあいだ電車でスマホゲーをする人の事が不思議だった。

こういう事をいうと怒られそうなのだが、個人的にはスマホゲーは全くといっていいほど面白いと思えず、世間の人達があんなにも熱心に耽る意味が皆目検討つかなかった。

「なんであんなにも面白くもないものに、みんなが熱中してるんだろう?」

本当にずっとそう思っていたのだが、先のフレーズをみてやっとこさ納得がいった。

みんなが熱中しているのはスマホゲーじゃなくて、生産行為だったのである。

生産は快楽
人間は暇に耐えられない。

暇と自由は似ているようで違う。

有名な実験に、何もない部屋に15分人間を放置するというものがある。

<参考 男は退屈より電気ショックを選ぶ:研究結果 | WIRED.jp>

別に15分ぐらいどうってことなさそうに思えるが、多くの人間にはこれに耐え難い苦痛を感じるようで、条件を変えて部屋の中に電気ショックで痛みを感じるボタンを設置すると、なんと男性の7割、女性も3割近い人がこのボタンを押すのだそうだ。

暇の痛みを一言でいうと”生産する自由を奪われる”という事である。

生産を禁じられると人は酷く苦痛を感じるようになり、時にそれは身体的な痛みすら超える。

何もしない事が本当にラクなのならば、それこそ生活保護を受けている人や介護福祉士施設に入所している人達はニコニコしてそうなものだが、現実的はそうではない。

この事は実験でも証明されている。

アトゥール・ガワンデの死すべき定めという本の中で、老人ホームに犬4匹、猫2匹、インコ100羽を入れ、高齢者に管理させるという非常に興味深い実験が紹介されている。

この実験にて、高齢者が餌を与える等の役割を与えられた結果、非常に健康的となってQOLが爆上がりしたのだそうだ。

一見すると摩訶不思議なこの現象だが、何もしないのが苦痛という事の真逆を考えると理解は容易いだろう。

ペットを飼うことを通じて高齢者が取り戻したものは、たぶん生産行為である。

役割と責任を与えられ、なにかの役に立つ事をしているという実感は、文字通り”人生の意味”にも等しい何かがある。

「何もしなくていい」はそれこそ「あなたが生きてる価値、なくない?」に容易につながる。

人間というのは本当によくできたもので、本当に何も生産できなくなると鬱々してくる。

生きることに意味があるのかという深遠な問いに対してズバッと解を出すのは難しいが、生きてるという実感に浸りたいのなら答えは簡単である。

生産し、生産性を向上させ、どんどんどんどんそれを押し上げる。

退屈を苦痛に感じる事の真逆さがそこにはある。

生産とは快楽なのである。

生産性を様々な面から再考する
僕は以前、僕の理想は『ありがとう・ごめんなさい・おはようございます』が必要ない社会という記事を書いたことがある。

ぶっちゃけ未だに本心ではこれらの行為が嫌いなのだが、この事を以前ある人に愚痴ったところ、こう返されて驚いた事がある。

「挨拶は礼儀作法はコスパがいい」

正直「ハ?」と思った。

何をいってるんだこいつは、とすら思った。

その人は続けてこう言った。

「挨拶や礼儀作法を守るだけで、物事が円滑に進んだり、勝手に評価が上がったりする」

「それらを別の物事で上げようとすると、根回しとかが必要になって結構大変な事も多い。挨拶や礼儀作法は全てのフィールドにおいて万能に働くし、守って損をする事はまずない」

「こんなにコスパがいいものは他にはない。やらない奴は馬鹿だ」

この言葉を聞いた時は若かった事もあって「腕一本で全てを屈服させたい」欲に満ちており、あまり心に響かなかったのだが、最近は生産性を上げる事自体が快楽だという事に気がついた事もあって、ある程度折り合いがつけられるようになってきた。

これはたぶん、僕が腕であげられる生産性の伸びしろが若干減ってきて、別の場所を塗り絵したい欲が産まれてきたという事なのだとも思う。

前にとある経営者がやたらと人徳について熱心に語っていたのをみて「なんでこの人はこんな事をするんだ?」と思ったのだが、あれもその人にとって一番”伸びしろ”がありそうに思える生産分野がそこだったのだろう。

「生産性がない」ことに人は耐えられない
生産性があるかという観点で様々なものを再考するのはとても面白い。

若い頃は色々な分野に伸びしろがあるという事もあって、特定の分野のみでぶち抜きたい欲がギンギン尖っているものだが、その鉱脈を掘りまくってひとたび採掘できるものが終わり初めると、人は徐々に退屈さをおぼえはじめる。

そこでダラダラと日々をやり過ごすのも一つの道だし、実際そういうやり方で人生を推し進めている人もいるのだが、あえて逆に「もっとなにか生産しよう」と思い始めてくると、今度は逆に退屈すぎて暇に耐えられなくなる。

よく歳をとって丸くなるという表現があるが、あれは本当に落ち着いたというのもあるだろうが、一つには礼節に生産性を感じるようになったというのもあるんじゃないだろうか。

身の回りを生産性で再考してみよう。

見方を変えれば、より生産性を上げる何らかの余白がかならずあるはずだ。

無駄にみえる事にも、生産性を見出す事さえできれば割とイケるし、逆に言えば生産性を見出す能力を磨いておくと、部下を持つようになった時に必ず役に立つ。

「ここではこういう決まりだから」では人は動かないが「これはこういう生産性がある」を様々なデコレーションして人に与えると”納得”の度合いがかなり違う。

生産性を様々な面から再考してみよう。

結構、カイゼンとか隠しパラメータへの抜け道がそこかしこにあるものである。

どうしたらもっとラクになるかを徹底する
そんな事をいっても、どうやったら生産性があがるのか皆目検討がつかないという人もいるだろう。

そういう人はとにかく生産にかかるインプット量をへらせというのが冒頭のちきりんさんの本のアドバイスだ。

ちきりんさんは、高生産者の具体例として働きながら子育てをしているワーキングマザーの例をあげる。

今の日本のワーキングマザーほど、すべてを1人でやっている母親はちょっと他の国には例がないというが、その高生産の秘訣は”インプットをこれ以上増やせない”という限定条件がかかっているからだそうだ。

彼女らも、最初は自分の睡眠時間を削って育児や仕事に取り組んだり、パートナーである夫に家事育児を負担してもらったりと、インプットを色々と増やして物事を解決しようとするが、もうこれ以上インプットを増やせないとなると、最終的には生産性をあげるしかなくなり、高生産者へと変貌するのだという。

例えばルンバを使ったり、ネット通販を使ったり、職場や保育園の近くに引っ越したりというのがそれで、自分や他人の労力や時間という貴重な資源をどうやったらインプットしないでいいかしか、生産性を本質的に上げる手段はない。

生産性をあげなければと真剣に考えるのは「そうせざるをえなくなった人だけ」なのである。

似たような仕組みを利用している企業にマッキンゼーがある。同社の企業分化(※文化の誤変換だろう)はUp or outと言われており、生産性をあげて昇進するか、生産性を上げられずに退職するかの二択を徹底して突きつけられ続けるのだという。

<参考 生産性 伊賀 泰代>

そういう目でみると、ある意味では日本の高生産ワーキングマザーというのはUpした人といえるのかもしれない。

生産性をあげられずいろいろな意味でOutしてしまった人もいるっちゃいるだろうから、まあ難しいところもあるのだが。

ラクをする事に罪悪感を感じたり、またラクをしている人を”仕事や責任を放棄している”と叩くタイプの人がいるが、この手のタイプの人とは付き合っていい事は本当に一つもない。

例えば手作り弁当を作る自由はもちろん担保されるべきだが、冷凍食品ツメツメ弁当を愛情がないと批判している人達は邪教に入信している。

たぶん、田端さんも初めは色々試行錯誤してお弁当を作ったのだと思うが、本当の本当に”無理”ってなって、冷凍食品ツメツメに行き着いたのだろう。

やっぱり、生産性を上げられるのは「そうせざるをえなくなった人だけ」なのだ。

ラクは悪いことではない。

また、ラクをするというのは働かないという事でもない。

ラクとは、より少ない労力で、同じ生産性を発揮する事であり、本来ならば称賛されるべき事なのである。

ラクをしよう
人生はあまりにも短く、また世の中には様々な歓びが満ち溢れている。苦労して、苦虫を噛み潰したような顔をしている暇など無い。

そういう他人の苦労をみてニンマリしているような邪教に入って幸せになる自由を僕は否定はしないけど、そういう人とはあまりオトモダチになりたいとは思わない。

どんどんラクになるための努力をしよう。

自分の人生をどんどんラクにして、様々な隠しパラメータをあげていく。

仕事の自己実現も、家族との共同生活も、趣味空間における楽しみも、全て成し遂げてゆき、生の実感を感じつつも、過労で鬱にならない程度に上手に人生を回していく。

何を生産するのかは本当にその人の自由だ。

電車の中でスマホゲームに興じるという形で生産活動を行うのもよし、子育てをするのもよし。

生産とは快楽であり、人生の意味そのものである。

「生きてる」という生の実感に乏しい人達は、たぶん本当は何か別のものを生産したいのではないだろうか?

自分が本当に生産したいものに自分の人生を捧げよう。

少なくとも、現代日本にはその自由がある。

人生を楽しむというのは、そういう事なんじゃないかと僕は思う。』