陸上自衛隊トップ、辞任覚悟の出動命令

陸上自衛隊トップ、辞任覚悟の出動命令
東日本大震災の発災からわずか30分で下した決断(2018年3月8日)
https://business.nikkei.com/article/interview/20150302/278140/022300001/?P=1

 ※ 白眉は、「火箱さんはこれだけの“作戦”をわずか30分で決めたのですね。事前に予感があってシミュレーションをしていたのですか。
火箱:いえ、そんなことはありません。会議をしていた11階の次官室から4階の自室に向かうため、階段を駆け下りながら考えました。エレベーターはとまっていましたから。」という部分だ…。


 その短い時間の間に(階段を駆け下りながら)、「使える戦力・部隊」と、「あり得る敵の侵攻」と「それに備えるべき戦力・部隊」、そして「兵站を担うべき戦力・部隊」…。そういうものを、一瞬のうちに弾き出す頭脳…。そして、「辞任(腹切り)」覚悟で「実行して行く」胆力…。
 そういう人材が、指揮官じゃ無いと、「いざという時」には役に立たない…。
 もちろん、「それができる」と判断されているからこそ、そういう「役職」に就いているわけだが…。
 
 どんな人でも、社会や組織においては、何らかの「役割」を振られていて、「いざという時」は「適切に行動すること」が期待されている…。
 構成員の全てが、「誰かが、やってくれる。」「自分以外の誰かが、やってくれるはず。」と思っていたら、そういう「社会」「組織」は機能するのか?「いざという時」に役に立つのか?
 
 どんな人でも、「いざという時」に備えるべく、頭脳と胆力を鍛錬しておくべきだと、思うぞ…。

 ちょっと長いが、全文を引用させていただきます…。
 
『2011年3月11日、午後2時46分。三陸沖を震源とする大地震が日本を襲いました。死者約1万6000人、負傷者約6000人、行方不明者約2600人(2011年9月11日時点)に及ぶ大惨事に発展した。

 こうした中、自衛隊は「10万人体制」を展開。約1万9000人を救助しました。救助された約2万8000人(2011年3月20日時点)の7割に相当します。これは、自衛隊が発災から72時間で3万人近い部隊を現地に集めたことが効を奏したから。その背後には、火箱さんが辞任を覚悟で決めた「即動」が大きな役割を果たしました。

火箱:当時、私は陸上自衛隊(以下、陸自)で幕僚長(以下、陸幕長)*を務めていました。救助部隊を少しでも早く現場に急行させるため各部隊に出動を命じました。災害に遭った人の生存確率が高いのは発生から72時間と言われています。危機的瞬間には手続きの万全さより迅速・実効性ある行動が勝ると思い、この間に大量の部隊を送り込むことが最も大事と考えました。
*:陸上自衛隊における制服組トップ。

火箱 芳文(ひばこ・よしふみ)
陸上自衛隊・元幕僚長。1951年生まれ。1974年に防衛大学校を卒業し、陸上自衛隊に入隊。第1空挺団長、第10師団長、中部方面総監を経て陸幕長に。2011年に退官。現在は三菱重工業で顧問を務める(写真:加藤 康)
でも、陸幕長は部隊の指揮権を持っていないのでは。

火箱:おっしゃるとおり、陸幕長は陸上自衛隊の部隊を指揮する権限を持ってはいません。自衛隊の部隊を指揮するトップは統合幕僚長(以下、統幕長)です。統幕長は、東北地方をカバーする東北方面隊の総監など、陸自に5人いる方面総監に命令を発する。陸幕長の役割は兵站、人事、教育、防衛力整備を司り、フォースプロバイダーとして統幕長の命令に応じて措置することです。

 ちなみに、統幕長は海上自衛隊では自衛艦隊司令官に、航空自衛隊では航空総隊司令官に発令します。

 また災害派遣時は原則的には、都道府県知事からの要請を受けて出動します。ただし、緊急時には自主的に防衛大臣から統幕長に災害出動命令を発することができます。しかし、それを待つこともしませんでした。

 午後3時前という時間のことを考えました。3月ですから、すぐに暗くなります。それに、いったん隊員が帰宅してしまうと、再び召集するにはさらに時間がかかる。』
『しかし、統幕長からの命令を待っていては、救える命が救えなくなってしまうかもしれません。「どの連隊が出動可能か」「どれだけ出せるか」といった確認のやりとりを陸自、海自、空自のそれぞれとして調整する必要があるからです。

 私がとった行動は「越権行為」「超法規措置」として処分されてもしかたありません。頭の片隅で辞任の弁まで考えました。「大臣からお叱りを受けるならば、大臣を補佐する幕僚としては失格です」と。しかし、先ほど申し上げた理由から、私の一存で部隊を現場に出すことを決めました。

阪神・淡路大震災の言われなき批判をそそぐ
なぜ、そのような決断ができたのですか。

火箱:一つは、1995年に起きた阪神・淡路大震災での苦い経験です。「自衛隊が現場に到着するのが遅かった」と批判を受けました。我々としては「言われなき批判」なのですが、我慢するしかなかった。

言われなき批判とは。

火箱:当時は、災害が起きても、都道府県知事からの要請がなければ部隊を派遣してはならない、とされていました。当時、第3師団はすぐに姫路や福知山の部隊などを神戸に向かわせていました。しかし、要請がないので神戸に入ることはできず、手前で待機することになった。そうこうするうちに道路は渋滞し、要請が出た時には動きが取れない状況に陥っていたのです。

 もう1つは能登半島地震の経験です。2007年3月25日に、能登半島を震度6の地震が襲いました。私は当時、能登半島をカバーする第10師団(名古屋市守山)の師団長。異動が決まって自宅で荷物を整理していると、家が大きく揺れた。とっさに「震源が近ければよいが、震源が遠ければ、現地は大変なことになっている」と考えました。

 自衛隊では震度5弱以上の地震が起きるとカメラを積んだヘリコプターが情報収集のため自動的に飛び立ちライブで映像を送るようになっています。よって震度5を超える地震は非常に大きな地震なのです。それが震度6。大きな被害が起きているのは間違いありません。

 すぐに走って駐屯地に行き、金沢の連隊を出動させました。金沢の連隊長もたまたま異動が決っており、翌日には離任式が予定されていたのですが、「離任式などない。すぐに出ろ」と命じました。

 間髪入れずに出動した偵察隊が、走行できない道の情報などをいち早く的確に伝えてくれたので、無駄な動きをすることなく救助に向かうことができました。

 この時の命令は師団長としての正規なものです。阪神・淡路大震災の教訓から自主派遣が可能になりました。』
『わずか30分で決めた部隊配置
東日本大震災に臨んで、部隊をどのように配置したのですか。

火箱:最初に連絡したのは東北方面隊です。状況を確認し直ちに出動を命じました。

次いで九州を担当する西部方面隊です。東北までの移動に最も時間がかかりますから。福岡にいる第4師団を出動させるよう指示しました(表)。ただし、北熊本の第8師団と沖縄・那覇に駐屯する第15旅団は動かさなかった。大災害が起きた非常時であっても、尖閣をはじめとする南西諸島への備えを疎かにはできません。第8師団は第15旅団の後詰めとして欠かせない存在です。
*:「師団」は陸自における作戦部隊の基本単位。中に、普通科、特科、機甲科や兵站部隊から構成される。「旅団」は師団の小規模なもの
 次に、東海・北陸・近畿・中国・四国を担当する中部方面隊(兵庫・伊丹)に連絡しました。中部からは第10師団(愛知・守山)を現場に投入する一方で、第3師団(兵庫・千僧)には残留を、第13旅団(広島・海田市)と第14旅団(香川・善通寺)には待機を命じました。

 第3師団は第10師団が抜けた穴を埋めるのに欠かせません。大都市・大阪が管轄内にあるし、北陸の原発を警戒する必要もあります。第13旅団は、日本海方面で北朝鮮が動いた場合に備えるため、第14旅団は四国で連動型南海地震が起きた場合に備えるためです。』
『北海道の北部方面隊からは旭川の第2師団と第1特科団等直轄部隊、東千歳の第7師団の一部を現場に送り、第5師団は帯広で待機、第11旅団は真駒内に残しました。

 第7師団は機甲部隊*で災害派遣には向かないので、隊員だけを出動させました。
*:戦車などを中心とする部隊
 第5師団を待機させたのは、震源地が三陸沖であることを考えると、釧路・帯広に影響して津波が襲う懸念があったからです。第11師団は中心都市・札幌を守ると共に、第2師団の留守をカバーするため。

被災地を視察する火箱芳文陸幕長(当時)(写真=陸上自衛隊幕僚監部)
 関東甲信越を担当する東部方面隊からは第12旅団(群馬・相馬原)を派遣しました。中心をなす第1師団(東京・朝霞)は動かしづらい。首都・東京の防衛を疎かにするわけにはいきません。加えて、茨城と千葉は被災している。なので、関東以西から駆けつける他の部隊の兵站を担うよう命じました。

 普通科連隊だけでなく、福岡・小郡の第5施設団をはじめとする施設団も派遣しました。廃材を撤去するための重機を持っているし、道路補修もできる。彼らが保有しているボートは水上から救出もでき、川に並べれば橋を仮設することもできます。

 一連の指示は作戦基本部隊である師団もしくは旅団の単位で行いました。現場を偵察して、即、行動に移すことができるからです。師団には情報部隊や飛行隊があります。彼らがどこにどんな支援が必要かの情報を集め、各連隊が実行する。連隊単位で動かすと、連隊は飛行機を持っていないので、十分な情報を集めることができない可能性があります。

 一連の指示の甲斐があって、72時間後には3万人の部隊が被災地で活動していました。

火箱さんはこれだけの“作戦”をわずか30分で決めたのですね。事前に予感があってシミュレーションをしていたのですか。

火箱:いえ、そんなことはありません。会議をしていた11階の次官室から4階の自室に向かうため、階段を駆け下りながら考えました。エレベーターはとまっていましたから。』
『兵站で力を発揮した民の力
兵站の面では民間企業が協力してくれましたね。

火箱:そうですね。

 北海道に居る北部方面隊が東北に駆けつけるには海を渡る必要があります。「船は自分がなんとかする。小樽でも苫小牧でも、港に部隊を集結させておけ」と北部方面隊の総監に命じ、海自の杉本正彦・海上幕僚長(当時)に北部方面隊を輸送艦で運んでくれるよう依頼しました。

 しかし、不運なことに輸送艦は1隻は海外、2隻は修理のためドックに入っており出航に2日かかるという。これでは72時間に間に合いません。結局、新日本海フェリー、商船三井フェリー、太平洋フェリーの協力を得て運んでもらいました。

 陸上では日本通運の協力を得ました。自衛隊の部隊内の兵站は自分たちで賄うことができます。しかし、避難者も支援しなければならない。しかも、その数は30数万に上りました。避難者の支援は本来、自衛隊の役割ではありませんが、放り出すわけにはいきません。せっかく救助しても、避難所で飢えたり凍えたりするようでは元も子もありませんから。

 そこで陸・海・空自衛隊で「民生支援物資輸送」の仕組みを作り、陸上輸送は日本通運に避難者向けの物資輸送を依頼しました。岩手・宮城・福島にある同社の倉庫を借り、そこまで物資を運んでもらう。その先の輸送は陸自が担当しました。

 日通のトラックには帰りのガソリンを現物で渡しました。実はこの前に、政府が食料と油を整えて被災地に送ろうとしたのですが、トラック協会は送れないとしていました。往きはよいが、帰りのガソリンを調達できないからです。日通との協力ではこの点を解決しました。

 先ほど説明した施設団はこうした支援物資を運ぶトラックが行き来するための道を切り開くのに活躍しました。

シャワーの水をちょろちょろ出しつつご遺体をお清め
震災から1週間たった3月19日から、火箱さんは現場への視察に出ました。現場はどういう状況だったのですか。

被災地を視察する火箱芳文陸幕長(当時)(写真=陸上自衛隊幕僚監部)
火箱:海岸線は瓦礫の山。三陸のすべての海岸はまるで艦砲射撃を受けた後のように茶色に染まっていました。私はそれまでにイラクとアフガニスタンの戦場の映像を見たことがありました。しかし、あの時の東北の状況が最もひどかった。

 そんな中でも陸自の各部隊は頑張ってくれました。

陸幕長の目から見て、高く評価できる動きはありましたか。

火箱:どの部隊も本当によくやってくれました。本当に頭の下がる思いです。視察中に気になったことをお話します。第10師団でのことです。ご遺体の処置の仕方です。

 隊員がご遺体をみつけると、まず警察官に通報する。警察官が検死をして事件性がないことを確認した後、遺体安置所に搬送します。第10師団の隊員たちは、警察官がご遺体にひしゃくで水をかけるだけでまだ泥だらけのまま検死を済ませる中、師団長の指示で化学防護隊が保有するシャワーセットを使って泥やヘドロを落としていました。ご遺体が傷み始めると、勢いよくシャワーをかけると壊れてしまいます。なので、水圧を弱め、ちょろちょろ水を出しながらお清めしてご遺体を丁寧に収納していました。

 こうした姿勢の違いから第10師団の第35普通科連隊は警察と一悶着起こすことがありました。熱心な隊員たちは警察が引き上げた後も懐中電灯を持って捜索を続けていました。その途中で一人のご遺体を発見した。検死はできない。しかし、その場に放置するのは忍びない。そこでご遺体を移動し仮安置しました。これに対して警察から「なぜ動かしたのか」と問い詰められたのです。法律を執行する上で彼らの主張は正しい。しかし、場合が場合です。話を聞いて「お互い協力し合うべき立場なのでそんなこと言うなよ」という気持ちになりました。

 この時は、地元・宮城県名取市の市長さんが「逮捕するなら私を逮捕してください」と言って取りなしてくれました。

 福島県相馬市で活動した第13旅団も、被災した皆さんの気持ちをよくくみ取るとともに、地元自治体との調整をうまく進めました。彼らの行方不明者捜索は徹底していました。冠水した担当地域の水を抜き、すべての瓦礫を撤去した上で、行方不明者を探す。瓦礫が残った状態では、家族の方は「その下に埋まっているかもしれない」という懸念をぬぐい去ることができません。なので、奇麗にした状態で捜索をし、その範囲に行方不明者はいないことを地元の区長さんに確認してもらった。

行方不明者の捜索に取り組む第13旅団の第17普通科連隊(写真=陸上自衛隊幕僚監部)
 災害派遣において撤収は最も難しい仕事です。それを第13旅団は見事な撤収を果たしました。家族がみつかっていない被災民の方は自衛隊に帰ってほしくないのです。我々も助けたい。しかし自衛隊にはほかの任務もあります。新たな災害が発生したらどうするか。外敵が攻撃してきたらどうするか。テロが起きたらどうするか。緊急性、非代替性、公共性を軸に判断し、自衛隊でないとできないことを優先せざるを得ません。どこかで区切りをつけなければならない。

 ある被災地ではご遺体の埋葬を依頼されることがありました。穴を掘って埋めてほしいと。ご遺体は徐々に傷んできますから。しかし、これは厚生労働省の管轄なので、当時の厚労相から各自治体に自衛隊に依頼しないよう通知してもらいました。それでも被災地の現場は手がないので自衛隊に頼んでくる。自衛隊の使命は緊急性の観点から、行方不明者を捜索して家族の元に返すのが優先事項であることを説明しました。』
『幼な子を抱いた母親のご遺体が…
 各隊員のレベルで見ても頭が下がる行動がたくさんありました。3月の東北の水は氷のように冷たい。それでも腰まで水につかり、行方不明者を手作業で探す者。自分の食事を被災者に差し出す者。みな泥だらけ、汗まみれ。それでも風呂には入れない。着替えすらできません。夜はごろ寝です。

行方不明者の捜索に当たる第1空挺団(写真=陸上自衛隊幕僚監部)
 こうした環境ですから、隊員の健康には心と体の両面で注意を払いました。毎日、幾つものご遺体を目にするのです。中には、幼な子を抱いたまま亡くなった母親の遺体もある。

 宮城県石巻市の大川小学校では、ランドセルが隊員の目に入った。「ここか!」と思いヘドロをかき分けて捜索すると、子供さんの遺体が上がってくる。そうした光景が自分の家族と重なる。その悲しみがどんどん心の中にたまっていく。

 なので、隊員たちに気持ちを吐き出すよう勧めました。夜、班長を中心に車座になって、その日にあった出来事を話す。ある時はみなで祈る。ある時はみなで泣く。それだけでも気持ちが変わります。

 自衛官がいくら身体を鍛えていても肉体的に疲労します。それに食事はずっとパック飯と缶詰ですませていました。自衛隊は野外でも炊き出しの機能を持っていますが、野外炊事車はみな被災者に提供しました。そうすると、ビタミンが欠乏するのでしょう。口の中に吹き出物ができる隊員が多く出ました。「きゅうりを1本食わしてやりたい」と思いましたが、なかなかかないません。できぬこととは知りながら、衛生部長に「日本中のビタミン剤を全部集めて送ってやれ」と叫んだことがありました。

 隊員から配慮のなさを指摘されることがありました。食事が不足しないよう送った様々なものの中に、赤飯の缶詰があったのです。担当者は赤飯の方が腹もちがよいと思い良かれと思って送ったのだと思います。しかし、先ほどお話ししたように、現場は毎日ご遺体に接し心を痛める状態です。「こんなもん食えるか!」と怒りの連絡が入りました。「申し訳なかった」というしかありませんでした。

 現場はそんな中にあっても様々な工夫を凝らして対処してくれた。ある時、「金魚鉢を送ってくれ」とのリクエストがありました。

行方不明者を捜索するのに金魚鉢が役に立つのですか。

火箱:冠水した地域はボートに乗って捜索をします。その時に金魚鉢を水面につければ、ボートの上から水中をのぞくことができる。

 胴長の足の底に鉄板を入れるというアイデアもありました。胴長を履いて水中を捜索していると瓦礫の中の釘を踏むことがあるので。胴長自体も釘でずたずたになる。なので、業者に頼んで胴長に細工をしてもらいました。

 線香と塩を送ってほしいという依頼もありました。ご遺体をみつければ、手を合せ、お悔やみを言いたくなるのが人情です。その時に使う。』
『人が足りない
陸自のトップとして震災を経験されて、気付かれた課題は何でしょう。

火箱:やはり人が足りないことです。師団はかつては3~4個の単位で編成されていました。これなら2~3個の部隊が活動している時に、1~2個の部隊は休憩することができます。しかし、今は人が居らず、部隊単位が減らされ非常に窮屈な編成になっています。交代すらままならない。人の数が減れば、それに応じて車両も武器も減ることになる。

 第2は陸上総隊がなかったことです。総隊司令部ができると5つある方面隊を運用統制できます。私が震災の時に果たしたのは、実質的に陸上総隊司令官の役割でした。空自は既に北部・中部・西部の3つの航空方面隊と南西航空混成団を一人の総隊司令官が指揮できるようになっています。

 第3は統合任務部隊の運用です。陸海空の3つの自衛隊を統合的に運用するため、JTF(ジョイント・タスク・フォース)という仕組みを作りました。JTF東北の司令官は陸自の君塚栄治・東北方面総監で、彼の下に海自の横須賀地方総監と空自の航空総隊指令官が加わる形を取りました。ただ、君塚総監の元に実際に居たのは海自と空自の連絡将校(リエゾン・オフィサー)で、彼らが指示をそれぞれの上司に伝えていました。

 これでは密な統合はできない。やはり、陸自・海自・空自それぞれの状況をよく分かっていて、実際に部隊に指示できる幕僚をJTFの司令部に出すようにしないといけません。

 ただし、この時の教訓が生かされ、この3月に陸上総隊が新編されます。

第一空挺団で活躍した(写真=陸上自衛隊幕僚監部)

私も先輩から多くを学びました。第一空挺団の中隊長になった時、1985年に起きた日航機墜落事故(御巣高山)の時の経験を前任者から聞いたことがあります。たまたま部隊のマラソン大会があり部隊が集結していたため、即動につながった。第一空挺団はこの後、必ず一つの中隊を初動部隊として待機させるようになりました。

 東日本大震災での経験も語り継ぎ、後輩たちに残していくことが大事だと思っています。』