旧資料備忘摘録 A・T・マハン著『ネルソン傅』M39-6

(※ リンクが、ちょっとおかしいが、飛べることは飛べる…。)

 ※ 兵頭二十八氏のサイトからだ…。いつもながら、参考になる情報が、満載だ…。オレが、白眉だと思ったのは、ここだ…。『ネルソンいわく。陸戦司令官と海戦司令官の違いとは。海軍将校は、気象を所与条件として、好機が与えられたときにそれを捉えるしかない。陸軍将校は、気象がどうなろうと関係なく、まえもって作戦計画を立てて実行すればよい。海軍では、そのやり方は不可能なのである。海軍将校にとっての好機は、今日、とつぜん到るかもしれないし、ぎゃくに1ヵ月も、まったく条件が整わないかもしれない。それはどうしようもないのである。』古来より、陸軍と海軍が対立するのは、ここに帰因するんだな…。特に、ネルソン提督の時代は、帆船での戦いだったんで、とりわけそうだったろう…。
 しかし、現代でも、本質は変わらないと思われる…。例えば、「空母」艦載機は、波高が3m以上だと、発・着艦が難しい…。特に、着艦は難しい…。「対象」が、3m以上も高低するということだからな…。尖閣の接続海域に進入してくる某国の艦船も、台風が近づくと、避難するしな…。その点、潜水艦は、自由度が高いと言えるのか…。
 さわりを、紹介し、背景が分からないと理解しづらいと思われることについてや、周辺情報について、ネットで情報収集したものや、画像を拾ったものを貼っておく。

『英軍将校には、自分を昇進させてくれる先輩や贔屓の有力者が必要であった。一般に、外国軍港に駐在している将校には、自分の判断で部下を昇進させる権力があった。その権力がないと、統率もピシッとしない。
 しかし軍艦内の少年見習士官にはすることがなく、専門教育が進まない。そこでサクリングは、ネルソン少年を西インド航路の商船に、軍籍のまま、1年強、転勤させた。当時の商船は大砲を備えており、軍艦とあまり違いはないのである。やることは無数にあるので、いろいろなことも高速で覚えられる。
 ただし問題が……。英商船の乗組員は、英海軍を憎悪していた。水兵の強制徴用があったからだ。軍艦内では残酷な刑罰によって規律が維持されていた。』
『海軍司令長官のセント・ヴィンセント伯爵いわく。人の勇怯を試みたくば、責任を与えることだ。
 ネルソンはカッター(4櫂立て、水兵12名)の艇長にしてもらえた。カッターよりでかいのは、ロングボートという。』
『ネルソンは海軍生活18年で将官になった。そのとき39歳。
 1779-8、仏海軍のダステーン(ダスタン)がサヴァナーに向かう前の一瞬、ネルソンに交戦のチャンスがあった。もし仏軍がジャマイカを攻めていれば。
 ここでマハンの地政学講義。ジャマイカから、ニカラガ湖とサンファン河をおさえれば、カリブ出口、地峡を制し得る。どちらも第一運河の適地に連接している。
 中米では毎年、1月から4月までは乾季。病気は減るが、川も浅くなる。』
『ネルソンは、将校も水兵もひとつの艦に固定されるべきで、あちこちの艦を転々とするべきではないの主義。※コーホート主義。
 水兵の自発的な成り手がないのも、この、艦から艦へたらいまわしされる悪人事が原因だと。』
『ネルソンの手紙にいわく。人として快楽なければ生くるも益なし。』
『1794まで行なわれた航海条例。殖民地と貿易する船舶は、英国かその属地で建造された船でなくてはならず、その乗員の四分の三は英国臣民でなくてはならない。
 マハンの解釈。これは、水兵のプールとして平時に商船の船員を大量に育ておき、有事には海軍がその全員を強制徴募できるようにするためだった。
 カリブの島民たちは英国の航海条例を無視しがちであった。米国船がGB国旗を便宜的に掲げることを推奨したり。ジャマイカ島の総督は本国命令に公然と反して、米国との自由貿易を後押ししていた。
 遭難船にはいろいろ便宜をはかってやってよいという例外規定が抜け道になった。
 道理を付会して制限を超えようとするのは商業の常習なのである。』
『魔女が焼いて邪神に献ずる犠牲のことを「ホロコースト」という(p.103)。』
『縄墨に拘泥する輩は、ネルソンの流儀が形式において疎慢であるため、ネルソンを嫌う。
 ナポレオンも言っている。戦場において、忽然と奇策が得られることがあるが、それは、平生胸裏に蔵するところのものが、浮き出すにのである、と。日頃考えていない者に、咄嗟の名案など出るもんじゃない。』
『トラファルガー海戦の意義は巨大。ナポレオンがモスクワ遠征を企画した原因なのである。そしてモスクワでケチがついたので、ワーテルローで最終敗滅する流れもできた。
 当時の出師準備は、まだ学問的に確立されておらず、一定の理説もなかった。
 英国はやたら軍艦が多いので、開戦と同時に水兵を充員するのにいちばん苦しむ。
 人気もないので、けっきょく商船の水夫を強制徴募するしかない。
 陸上での徴募は、原則として「徴募曹長」が責任者である。
 ネルソンは、できるだけ、水兵が、同じ郷土からあつめられた集団になるようにしたかった。団結が強くなるから。
 ネルソンはノーフォーク人であり、下情に通じていた。水兵たちと、好悪をともにすることができた。』
『対仏戦の初盤の数年は、私掠船のために英国貿易はピンチにたたされた――と英国庶民は考えた。ネルソンは、違うと言った。小型の私掠船が活躍できるのは、バックに艦隊が健在だからなのである。
 ジブラルタルには水が乏しく、給水の便は悪い。
 近くのスペインの軍港、カディスで給水する。
 スペイン艦隊は巨艦が多数あって壮観なのだが、乗員の質が甚だ悪かった。
 すでにこの当時、戦列艦には乗員1000名あることあり。』
『ジェノバ政府は、中立の名義をもって穀類を仏南岸港に搬入し、仏国貨物とトレードしようとした。そこでネルソンはニースに転じてその阻止に努めた。
 この時点で英国がフランスを苦しめることのできる方法は、仏南岸への海外からの糧食搬入を妨害することだけであった。南仏の穀物生産は、住民を3ヵ月自給させることしかできなかった。輸入先は、シシリーとバーバリー海岸。なぜ仏国内の北の穀倉地帯から輸送しないかというと、輸送交通手段がなかった。
 ツーロン市は英軍による封鎖に苦しんで、市民が市長を勝手にとりかえ、ブルボン王家の白旗を掲げ、封鎖者である英海軍とスペイン海軍に、戦列艦30隻を引き渡した。
 古語に、「飢餓は獅子をも馴らすべし」という。ネルソンはそれが本当だと知った(p.161)。』
『封鎖艦隊に補給がとどこおると、ついには、食い物が、塩漬け牛肉だけとなる。これは生肉や野菜と違って、栄養バランスが悪い。
 ネルソンは艦内衛生を保つ方法を知っていた。西インドで3年間、艦長をしていたとき、将校も水兵も、ひとりも病死させなかったという(p.165)。
 艦の乗員を、退屈にさせていてはいけない。それが病気を招く。常に、仕事か遊戯をさせないとダメ。』
『ネルソンはコルシカ島の封鎖を任された。ニースから仏兵が8000人、輸送船でかけつけようとしたが、1小艇も港に入ることができず、1兵も上陸できなかった。
 ネルソンの持論。英兵1名は、仏兵3名と対抗できる。
 ナポレオンによる仏海軍提督評。ナポレオンが見ていないところでは、安全策をとろうとし、ノーリスクで戦争しようとする、と。
 ネルソンの自己評価。穏順遅慢を忍ぶことができない。
 コルシカのような島を海上から封鎖するには、夜間は、艦隊から端艇を出して海面を巡邏させなければならない。
 艦載砲を陸戦のために揚陸したときは、操砲は水兵にさせるが、射撃指揮は、陸軍の砲兵将校にさせる。』

正妻だった、ネルソン夫人の肖像画だ…。
愛人だったとされる、「エマ・ハミルトン」の肖像画だ…。

英仏戦争( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E4%BB%8F%E6%88%A6%E4%BA%89 )

『英仏戦争(えいふつせんそう)とは、イングランドまたはイギリスとフランスとの間で闘われた戦争である。百年戦争が最も有名だが、その後も度々闘われた。
1337-1453年 – 百年戦争
1475年
1488年
1489-1492年
1512-1514年 – カンブレー同盟戦争の一環
1522-1526年 – 第1次イタリア戦争の一環
1542-1546年 – 第4次イタリア戦争の一環
1549-1550年
1557-1559年 – イタリア戦争の一環
1627-1629年 – 三十年戦争の一環
1666-1667年 – 第二次英蘭戦争に関連して起こった戦闘
1689-1697年 – 九年戦争の一環
1702-1713年 – スペイン継承戦争の一環
1744-1748年 – オーストリア継承戦争の一環
1756-1763年 – 七年戦争の一環
1778-1783年 – アメリカ独立戦争の一環
1793-1802年 – フランス革命戦争の一環
1803-1814年 – ナポレオン戦争の一環、半島戦争など参照
1815年 – ナポレオン戦争の一環、第七次対仏大同盟など参照』

※ 「百年戦争」の他に、これだけ戦っているのか…。逆に、戦争していない時は、殆んど無いんじゃないか…。

※ 1812年頃のヨーロッパの様子だ…。各地で戦いが繰り広げられ、ジブラルタルの近辺で行われた、「トラファルガーの海戦」(1805年)が、ネルソン提督の名を一躍有名にした、一大海戦だったわけだ…。

私掠船の歴史( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E6%8E%A0%E8%88%B9 )

『イギリスの私掠船の始まりは、1243年にヘンリー3世がゲオフレイ船長に与えた報復を目的とした許可が初めてとされているが、国家が積極的に奨励したのはエリザベス1世治下の英西戦争の時のことである。フランシス・ドレークの私掠船による世界周航やカディス襲撃は偉業と讃えられた。アルマダの海戦に参加した200隻以上のイギリス艦船のうち、150-160隻は商船だったと言われる。西インド諸島海域に遊弋するイギリス私掠船の活動は激しく、当時のイギリス船は「海賊船」と評価されることになった[6]。

1655年、オリバー・クロムウェルの「西方政策」によってイギリスはジャマイカを占領し、マドリード条約によってその支配を確立した。ジャマイカ総督はバッカニアや私掠船船長をポート・ロイヤルに誘い、私掠免許を与えてスペイン勢力への私掠行為を促した。船長の一人ヘンリー・モーガンはスパニッシュ・メインの18の都市、4つの町、多数の村を襲撃し、パナマ地峡を超えパナマ市を略奪、破壊した。この功績によりモーガンはナイトに叙され、ジャマイカの副総督となった[7]。

18世紀の英仏戦争中には非常に多数の私掠船が活動した。スペイン継承戦争、アン女王戦争ではフランス側が多くの私掠船を繰り出し商船を襲撃したが、制海権は常にイギリス側に握られ戦争の大勢に影響を与えることはできなかった。 アメリカ独立戦争では1775年に正規の軍艦と商船改造の私掠船からなる大陸海軍が編成されたが、参加した私掠船は合計すると約1500隻に及んだ[8]。ジョン・ポール・ジョーンズはイギリス本国沿岸での牽制攻撃を企図し戦果を上げたが、多くの私掠船は金目当てであり、専ら輸送船や商船を襲撃した[8]。

フランス革命からナポレオン戦争にかけてフランス側の私掠船が活躍し、交戦国・中立国に対し略奪し、大陸封鎖令を側面から支援した。 革命後、仏領西インド諸島では条件が自由に書き込める私掠免許証が公然と売りさばかれた。また、チャールストン在住のフランス人たちは、偽造された委任状を元に私掠船を作り破壊活動を行った。1797年のアメリカ国務省の報告では年間に300隻以上のアメリカ商船がフランス私掠船に拿捕されたという。翌年の1798年にアメリカとフランスは非公式な戦争状態に入り、アメリカ側も200隻に及ぶ商船に対フランス私掠免許と報復的拿捕認可状を発行した[9]。

アメリカの南北戦争において南部連合政府は私掠船免状を発行したが、それにより活動した少数の私掠船はたちまち圧倒的に優勢な北部海軍により鎮圧された。

1856年のパリ宣言でヨーロッパ列強は私掠船の利用を放棄した。さらに1907年のハーグ平和会議で武装した商船[注釈 1]は軍艦として登録されるべきことが国際法として規定され、アメリカ合衆国を含む諸国もそれに従い、私掠船の慣習は消滅した。パリ宣言以後、戦時に民間船は特設艦船として用いられることとなった。』

トラファルガーの海戦( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%B5%B7%E6%88%A6 )

※ 海戦の全体のイメージは、こんな感じ…。「鶴翼」の陣を広げる仏・西(スペイン)連合艦隊に対して、ネルソン率いる英艦隊は、二列の「縦深」陣形(ネルソン・タッチと言うようだ)で突撃して、撃破した…、ということだ…。

その時掲げられたとされる「信号旗」。「DUTY(義務)」と読むらしい…。日本軍なら、「各自奮励努力せよ!」だな…。

陣形の変化の様子だ…。(「名将に学ぶ世界の戦術」 https://www.facebook.com/162161487315498/posts/312368992294746/ )

大体、「鶴翼の陣」は、相手を両翼が包み込んで、挟み撃ちにして、敵を殲滅する…、という「陣形」なんだが、ネルソン・タッチで「二重の縦深」陣形なんで、うまく包み込めず、また、仏・西連合艦隊は、操船にも難があって、うまく行かなかったようだ…。

古来より、陣形には、様々ある…。戦いの場所の地形や、気象に応じて、適宜採用して、合戦するわけだ…。上記は、代表的な「武田八陣形」だ…。(たぶん、大元は「孫氏の兵法」にあるんだろう…。「風林火山」も、そうだしな…。「鬼門遁甲の陣」とか、名前だけは聞くからな…。  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A3%E5%BD%A2  )ネルソン・タッチにおける「二重の縦深陣形」に、似たものもある…。「衡軛の陣」というものだ…。「長蛇の陣」を二列にしたようなもので、「山岳戦」なんかで用いる…、とある…。まさか、ネルソン提督が、「武田八陣形」を研究したものでも無い…、と思うが…。明治政府と英国は、薩摩の時代から関係が深かったから、アーネスト・サトウ辺りを通じて、文献が英国に渡っていた可能性が、全く無いわけじゃ無いとも、思う…。