違憲(立法)審査権について

 憲法記念日でもあり、「違憲(立法)審査権」について、語っておく。


 立憲主義は、「憲法」という法を立てて、国家権力側にそれを守らせることによって、国家権力の恣意的な濫用を抑制し、国民の人権を保障して行こうとする考え方だ。通常は、「憲法典」という「成文法」を制定し、それを公布する。

 しかし、別に「憲法典(例えば、「日本国憲法」とか)」を制定しなくても、国家の基本的なあり方や、根本的な考え方について規定する「法」であれば、それが「憲法(不文法)」だ。現に、立憲主義発生の地とされる、英国(1215年大憲章が、その精神の始まりとされる)においては、「英国憲法典」みたいな成文法は、存在しない(イギリスの憲法 https://ja.wikipedia.org/wiki/イギリスの憲法 )。そして、これを承継しているアメリカ合衆国(元来が、英国の植民地として始まっている)においては、逆に「1787年アメリカ合衆国憲法」と言うものが制定されている。これは、現在も機能している世界最古の成文憲法と評価されている。


 こういう風に、「法」を立てて、それを守らせることによって、国家権力の濫用を規制して行こうとする考え方において、次に問題となるのは、「国家権力側が、法(憲法)に反する振る舞いをした場合、それをどういう方法で、「違法だ(憲法違反だ)」と宣言し、止めさせて、本来の軌道に戻させるのか、と言うことだ。


 「法に反する」と判断することなので、国家作用としては、立法・行政・司法のうちの、「司法」作用に含まれることだろう。そして、それを実際に取り扱う部署としては、「裁判所」に管轄させることが、自然な考え方だろう。それで、各国の法制度においても、「裁判所」に「違憲審査権」を与えて、国家権力側の憲法違反を審査させる、という仕組みが殆んどだ。


 しかし、ここに大矛盾があるんだよ。


 国民主権の考え方からすれば、国民主権 → 国民代表たる議会 → それが、制定する法律 という構造だ。しかし、「違憲審査権」は、その国民代表たる議会が制定した「法律」を、非民主的な「裁判所」「裁判官」が覆すわけだからな…。

「裁判官」は、国民代表か?選挙で選ばれているのか?国民の意思が反映されているのか?立法府たる議会(国会)は、「国権の最高機関」じゃなかったのか?( 第四十一条 国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。) 司法府は、三権の頂上に立つ第四権なのか?


 ここでは、「国民主権」と「法の支配」が激突するんだよ。( 法の支配 https://ja.wikipedia.org/wiki/法の支配 )


 両者ともに追求すべき価値なんで、解決方法としては、両者ともに成立させる方向となる。しかし、ここから先は、「国会」と「裁判所」のどちらに信頼を置くか、と言う各国の歴史的な経緯をも踏まえた、制度設計の話しとなる。


 まず問題となるのは、「憲法裁判所」と言う「違憲審査権」を専門に扱う特別な裁判所を設置するのかどうかだ。


 次に問題となるのは、違憲審査権の内容として、「抽象的違憲審査権(特定の法律の条項や行政行為が、憲法に違反しているかどうかと言うことそのものを審査すること)」を認めるのかどうかだ。


 日本国憲法の通説的な解釈としては、「憲法裁判所」は設置されていない(そういう憲法の条文は、存在していない) → 「抽象的違憲審査権」は認められていない(そういう憲法の条文は、存在していない。逆に、違憲審査権を認める81条は、「第6章 司法」の中に置かれている) → 付随的違憲審査権と解される と言うものだ。


 「付随的違憲審査権」とは、違憲審査は、通常の訴訟(民事訴訟:国家行為によって損害を受けたとして、損害賠償請求していく、刑事訴訟:法律違反として起訴されたが、そもそもその「法律」が「違憲」だから、無効で、無罪だと主張する)の中で、直接には「法律」の適用の成否を争う中で、その法律が「違憲でないのか」を付随して審査する、と言うものだ。


 日本国憲法は、その制定の歴史的な経緯から、アメリカの影響を強く受けている。だから、日本国憲法の定める「違憲審査権」も、アメリカ流のものと解するのが、穏当な憲法解釈だろう…、と言うのが通説的な憲法解釈だ。


 あと、付け足しとして、「法の支配」と「法治主義」について、語っておく。


 「法の支配」とは、上記Wikiにもある通り、「rule of law」の日本語訳だ。


 ここにおける「law」は、単なる「法律」ではない。「正義の法」という概念をも、含んだものだ。単に、立法府が制定した「法律」だから、常に適用されるのだ、と言うことになったら(これが、「法治主義」。中国共産党の得意技だ)、そもそも「違憲審査」とか成立しない話しだろ?国民代表たる立法府も、間違うことがある。その場合は、「正義の法」によって、それを正すことができるのだ、としない限り「違憲審査」とか、できない話しになるだろ?


 しかし、こう言うと直ちに問題が生じる。「正義の法」って、何?誰が、どうやって判定するんだ?という問題だ。争うヤツは、いつだって「自分の主張は、正義だ。」と言い立てるに決まっている。それぞれが主張する「正義」と「正義」が衝突するから、争いになるんだよ。それをどういう風に、どこら辺で妥協させるのか、がいつだって問題になるんだ。結局は、制度設計の話しになる。


 ヨーロッパ近代の歴史において、英国流とフランス流(ドイツも含めて、大陸流と称されることがある)とに分かれた。


 英国では、大憲章の歴史的な経緯もあり、貴族が穏健な議会を形成し、議会制民主主義を採用し、わりと国民代表を信頼する制度設計となった(司法府の権限を、縮小する方向となる)。


 フランスでは、フランス革命の経緯もあり、国家権力側を徹頭徹尾信頼しない流れとなり(司法府も国家権力側の一味だ、とする)、特別な「憲法裁判所」を設置する流れとなった。


 いずれにおいても、血で血を洗う闘争の果ての妥協の制度なんで、その制度に込められた「血の重み」は、相当なものだ。


 しかし、日本国の制度とて、それに劣るものでは無いぞ。一大内戦だった「戊辰戦争」の末の明治維新の成立、西南の役を初めとする武士の反乱の鎮圧、日清・日露の戦争、一次大戦における大陸への派兵、ソ連成立への干渉の派兵(シベリア出兵)、ノモンハンでのソ連との戦闘、そして大東亜の欧米勢力からの解放を掲げて戦った大東亜戦争(太平洋戦争)…、とたっぷり血が流れている(原爆投下も、あったしな)。


 よく、日本は市民革命を経験していないんで、人権保障に弱いところがある…とか言う論があるが、とんでもない話しだ。


 憲法記念日にあたって、日本国憲法が成立するまでに日本国及び日本国民がはらった犠牲に思いをはせることも、有意義なことなんじゃないのか…。