『債権と物権、そして奴隷制の話し』

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債権と言うのは、「一定の行為をすることを、要求できる法律上の地位」と言った感じのものだ。。
例えば、人にお金を貸したとする。当然、「返せよ」と言える(金銭債権を有している状態だ)し、返さなければ強制執行を掛けて、その人の財産を差し押さえて、無理やり換金することができる。
しかし、不動産(まあ、土地だな。建物も不動産だが、競売するとなれば、二束三文だ。あまり高くは競売できない。築30年以上だと、却って解体費用が掛かったりする)に「抵当権」が設定されていると、競売した時に、まず抵当権の方(抵当権付きの金銭債権)から、充当していくんだよ(債権しか持ってない人は、後回しにされてしまう)。
抵当権って、「担保物権」だ。前に「賃借権」の説明のところで、「物権は、債権を破る(物権は、債権に優先する)」ってことを説明したと思うが、担保物権も物権の一種で(金銭債権の担保のための物権で)、一般の金銭債権に優先するという風に法律上構成されてる(そう取り決められてる)んだよ。
物権(物に対する直接の支配権)の親玉は、「所有権」だ。この所有権と言うものは、すべての「物権」の源泉だ。所有者は、その物を煮て食おうと焼いて食おうと自由だ。破壊して廃棄することも、認められている(建物所有者は、建物を解体して木材にして、それを売り飛ばしても、自由だ)。
土地の所有権を有していると、その土地を自由に利用できる。他人に所有権の権能の一部を与えることも、自由だ。
例えば、土地の利用権を与える(「地上権」という物権を設定する)ことも自由だし、「抵当権」という担保物権を設定することも、自由だ。
担保物権という物権は、ちょっと分かりにくいが、要するに普段は今まで通り、所有者(金を借りてる人)が自由に使っていても良いが、いざ借りた金を返さないとなれば、競売に掛けて換金して、そこから優先的に支払いを受ける権利をキープしている、と言った物権のことだ。
イメージ的には、「所有権」(物権の親玉)を有していると、様々にその権能の一部を切り出して、その一部を他人に与えることができる。切り出された権能の一部(所有権の権能の一部が制限されているようなものなんで、「制限物権」と言ったりする。所有権の権能の一部しか備えていない点からは、「一部所有権」とも表現できようか…)は、「物権」としての性質を有していて、純粋の債権に優先する、と言った感じか…。
ただし、「どんな物権を切り出すのか」は、自由にはできない。物権の種類は、決められていて(一定の型が法定されていて)、自分で勝手に”型”を作り出すことは、できない(「物権法定主義」と言う)。
物権は、強力な(約束ー契約ーしていなくても、その支配を脅かす他人に対しては、それが誰であっても主張できる)権利だから、みんながそれぞれ勝手な”型”を作り出すと、収拾が付かなくなるんだよ。それで、予め「型」を決めといて、「こういう物権は、こういう権利」と言うことを決めておくことにしてある。
そもそも、何で物権が債権に優先する(と取り決められている)のか、と言えば、物権が物に対する「直接の」支配権と構成されているからだ。
「直接の」と言うのは、「人を介さないで」という意味だ。
これに対して「債権」は、約束したその人に対してしか主張できない権利と構成されている。貸した金返せよ、と言えるのは、借りた人(返すと約束した人)に対してだけしか、主張できない。
これが物権だと、物を直接支配してる権利だから(法律上、そういう風に構成されている)、その物に対する様々な権能を脅かす全ての人に対して主張できる。
例えば、土地の所有者は、その土地を不法に占拠してたりする人全てに対して「オレの土地からどけよ」と主張できる。何らかの約束を、していなくてもだ。
こういう風に、物に対する支配と人に対する権利と二本立てで処理をしていくやり方は、実は人に対する、人の人格に対する尊重でもあるんだよ。
物は人格を有しないから、煮て食おうと焼いて食おうと自由にしても良いが、人に対しては、そうは行かない。あくまで、約束をベースにして、約束したから権利を主張できる(「約束したから、約束したことを守れよ」と言える)と言う風にしてあるんだよ。
こういう処理に至るまでには、長い歴史が掛かっている。人類の歴史上、人を物のように扱うということは長く行われてきた。「奴隷制」なんてのは、その典型だ。「奴隷」は人では無く、物に近いものとして、(法律上は)処理されてきた。
アメリカ南部の奴隷制は、南北戦争で北軍が勝利するまで続いたんだぞ(1865年に終結だ。たかだか、153年前の話しだ。日本で言えば、幕末のペリー来航の後の話しだ。
1865年は慶応元年で、「5月に土佐勤王党の頭目・武市半平太が処刑される。
坂本龍馬が薩摩藩の支援を得て、亀山社中を設立する。」なんてな出来事が起こっている。薩長同盟の成立は、翌1866年だ。だから、そんなに大昔の話しじゃないんだよ。
ローマだって、奴隷制に立脚してる。「自由人」と「奴隷」の厳然とした区別があった。「剣奴」なんてものも、存在した。「スパルタカスの反乱」とか、聞いたことあるだろ?
ギリシャも、奴隷制に立脚している。労働は、ほぼ奴隷任せだった。だから、ソクラテス・プラトンのギリシャ哲学も、奴隷の労働無しには成立しなかった。労働は奴隷任せだったから、自由人は思弁的な思考に集中できたという訳さ。
スペイン・ポルトガルの南米での植民地支配も、現地人(インディオとか、インドでも無いのに「インド人」とか勘違いで呼んでた)を人扱いしなかった。キリスト教(カトリック)も、そういうことに加担した。
日本でも、九州のキリシタン大名の一部が、鉄砲の火薬に必要不可欠な硝石欲しさに、自国の領民をほぼ奴隷として売り飛ばした(女子、それも若い女子が喜ばれたー商品価値が高かった)。
帝政ロシアの農民は、「農奴」とも評価されている。
別に、過去の話だけではない。現在では、さすがに表だって「奴隷制」を正面から採用することは、はばかられる風潮になっている。
しかし、形を変えて似たような形態は存在している。中国共産党の二重戸籍制なんてのは、農民を奴隷化するものとも評価できる。
北朝鮮の海外労働者も、国家によるある種の奴隷の輸出とも評価できる。
日本でもサラ金全盛期には、貸した金を返せないとなると、若いねーちゃん・奥さんはフーゾクに沈めたり、オッサンやにーちゃんはたこ部屋に送って働かせたり、果ては「腎臓2個あんだろ。1個取っても、命に別状ないだろ? 」とムリヤリ臓器を取ったりした…。
アメリカ建国は、表向きは本国で迫害された「ピューリタン(清教徒)」の「ピルグリム・ファーザーズ」が建国したということになっているが、実態はイギリスやヨーロッパで食い詰めて借金を背負って、貸し主に無理やり送りこまれた白人の「債務奴隷」が建国した、という説を言ってる人もいるんだよ。
オーストラリアやニュージーランドも、ご同様だ。特に、この2国は、イギリスの流刑地でもあった。
だから、オーストラリア人やニュージーランド人と知り合いになる時、自分の祖先は流刑にされた囚人でもないし、借金背負った債務奴隷でもないって話しを長々とやり出す人もいるんで、メンドくさくて、大変だ…、という話しも聞くぞ。
人間、欲に駆られると、そういうことを平気でやらかすし、やらかしてきたのが人類の歴史なんだよ…。